『鎌倉殿の13人』の義経

2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はとても面白かった。鎌倉時代の殺伐とした雰囲気がよく描けており、源平合戦のアフターストーリーとしても楽しめた。

ひとつだけ不満点をあげるとすれば、源義経の描き方である。作中では、菅田将暉が演じる義経は一種の狂人として描かれていた。というのも、『鎌倉殿』は源平合戦の描写を意図的に避けていたので、戦争のなかで示される義経の個性を無視することになり、結果として現実感の薄い人物描写になったのだと思う。

いぜん岩明均の『ヒストリエ』を読んだときにも、同じような失望を味わわされた。『ヒストリエ』はアレクサンダー大王の書記官エウメネスを主人公とした歴史漫画で、おそらく大王のアジア遠征をテーマとする作品である。重要なネタバレになるが、本作では、アレクサンダーは多重人格的な精神異常者として描かれている。

だが、もしもアレクサンダーが異常者であったならば、彼に付き従った武将たちは異常者をリーダーに選んだ愚か者ということになり、彼らの遠征そのものが喜劇になってしまう。結果、アレクサンダー・ロマンは成立しなくなる。したがって、戦場における大王を狂人として描いた時点で、『ヒストリエ』は失敗作になったと言っていい。

義経にしろアレクサンダーにしろ、天才的な軍事指導者を狂人として描くことしかできないということが、日本文化の最大の弱点である。戦後の日本人は戦争を異常で非人間的なものとして描いてきた。そのため、優れた戦争指導者も狂人として描かざるをえない。これが日本文化の幅を狭めている。

ギリシャには『イーリアス』があり、インドには『マハーバーラタ』があり、中国には『三国志』があり、日本には『平家物語』がある。戦争という巨大な力のぶつかり合いは、古来より無限の文学的創造力を人類に提供してきた。その芸術の源泉を日本人は捨ててしまった。それがいかに不幸なことか、本人たちは知る由もない。

『平家物語』において、義経は「情けある男」と描写される。これは、現代の言葉に直せば「情けない男」という意味であり、いくさに出るよりも女の子と遊ぶほうが好きだという、女々しい男として描かれる。

『平家』の義経はいくさが嫌いである。嫌いというより、自分から戦おうとしない。頼朝様が命じたからとか、後鳥羽上皇に頼まれたからとか、他人から理由を与えられなければ動こうとしない。そして、命令がないときには女や音楽などの享楽にふける。このように自堕落で意志の弱い人間ではあるが、ひとたび戦場に出れば天才的な強さを発揮し、彼一人で戦況をひっくり返してしまう。

こうした義経的な英雄像は、現代にも脈々と受け継がれている。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ君は、義経そのものといってもいいくらい、戦いが嫌いなヒーローを体現している。意志の弱いシンジ少年は父の命令に従って戦うべきか、それとも自分を守るために戦わざるべきか葛藤を続け、結局女に逃げる。いくさに意味を見出せない英雄の姿がここにある。

義経の個性は、戦争という現象と正面から向き合わないと分からないものである。彼が那須与一に船上の平家を射抜くよう命令したのは、敵の弓矢が届かないことを知っていたからである。与一以外の誰にも的を射抜けないということは、一方的に敵を攻撃できるチャンスなのだ。ここに見られる義経の姑息さは、彼が戦というものに何の意味も見出しておらず、ただ自分の命を守ることを考えていた、ということを示している。

壇ノ浦における八艘飛びもしかりである。平家方の武将能登殿は己のプライドをかけて義経に一騎打ちを挑むが、義経は船から船へ逃げ回るだけで相手にしない。憤慨した能登殿が坂東武者数人を道連れにして壮絶な討ち死にを遂げたときも、義経は知らん顔である。その行為は卑怯と呼ばれてしかるべきものであるが、彼にとってはプライドよりも命のほうが大事なのだ。

こうした戦いを嫌う英雄像が日本にはあり、またそれと対をなすように、戦いを受け入れる能登殿のような英雄像も存在する。この両者の対比が『平家物語』を優れた文学にしている。

我々読者の立場からすれば、能登殿と義経の一騎打ちが是非とも見たいのであるが、現実はそう単純ではない。戦場には様々な個性があり、人間性がある。それを抉り出すことが文学の役割である。

日本人はいまだに戦争から目をそらし続けている。

私が『亜米利加物語』を書いたのは、この欠点を克服するためである。戦争の中に人間性を見出し、それを文学に昇華する。こうした試みが日本文化に新たな息吹を与えるはずである。

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