因果律と論理学

1

 ときどき、因果関係を論理的な関係と誤解している人がいる。しかし、因果律を論理によって捉えることはできない。
 アリストテレス以来の論理学の伝統は、普遍と個物に関するものである。いかにして個物を普遍的な名辞と結びつけるか、という問題が論理学の本質である。
 一方で、因果律の本質は場合分けである。同一の状況の下で、ある条件が満たされた場合と、満たされなかった場合とを比較することから、因果関係の認識が得られる。

 したがって、論理学を構成するために因果律は必要ないし、また、因果律を把握するために論理学は必要ない。これらは全く別のものである。
 論理学をいくら調べても、因果律を見つけることはできない。因果律は論理学の外にある。

2

 論理学は言葉に関わることだが、因果律は現実に関わることである。

 たとえば、二酸化炭素が原因で温暖化が起きている、ということを、論理的に証明することはできない。むしろ詭弁的な論理を弄することで、それとは反対の結論を導くことすらできる。
 しかしいくら言葉の上で否定しようとも、温暖化が起きていることは事実だし、その原因が二酸化炭素であることも事実である。また、温暖化に起因する自然災害によって、多くの人命が失われていることも事実である。にもかかわらず、様々な詭弁によって、温暖化を軽視しようとする人間が後を絶たない。

 事実とは正反対の主張を、論理的に筋が通った形で行うことは常に可能である。したがって、論理学の知識によって、事実を明らかにすることはできない。
 ゆえに、論理学には何の価値もない。それは現在の世界においては、誤った考えを人に信じ込ませるために、役立てられているにすぎない。

3

 このような人々に、現実に危機が起きていることを知らせるためには、何をすればよいか。実際に危機が起きているのに、それに気づかず、自分の利益を追求するために血眼になっている人々の目を、どうすれば覚ますことができるのか。
 そのためには、彼らの身体に火をつけてやるしかないのかもしれない。洪秀全が南京を落としたように、大塩平八郎が大坂を焼いたように、一度すべてを焼き尽くすしかないのかもしれない。

 たいていの商人は平和主義者である。なぜかといえば、農民が武器を持って立ち上がれば、商人はひとたまりもないからである。ゆえに、彼らは保身のために、平和主義を広めざるをえない。農民も同じように平和主義者でいる間は、安全に彼らを搾取できるわけである。
 それに抗って、農民が自らの権利を主張するためには、武器を取るしかない。なぜならば、利益に目がくらんだ商人には、他人の言葉に耳を傾ける余裕がないからである。

 武士の本来の役割は、両者の仲介である。彼らは武威をもって商人を抑え、仁政によって民を安んずる。その仕組みが機能しなくなると、大塩のような乱が起きる。
 大坂の商人たちは、彼の名前を肝に銘ずるべきであろう。平和主義は万能ではない。

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