遊牧民の世界史

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遊牧民の世界と中原とは、おそらく不可分のものである。古来、遊牧民の活動が中国の農耕民に影響を与え、また逆にその影響を受けてきた。

遊牧民といっても、彼らだけで自足できるわけではない。羊を引き連れて生活するために、タンパク質が不足することはないが、穀物は農耕民から手に入れるしかない。そのため、彼らは常に農耕民を必要とし、農耕民の方でも、馬という強力な機動力を必要としていた。それは、いわば持ちつ持たれつの関係であり、両者の間に厳密な境界線はなかったのだろう。

遊牧民は、人類の歴史を通して、媒質としての役割を果たしてきた。農耕社会を石だとしよう。そうすると、遊牧社会は水である。農耕民は簡単に移動できないが、遊牧民は常に移動し続ける。

いま、二つの石があるとして、それらの間が真空で、熱を伝える媒質が存在しないとしたならば、一方の石を熱しても、他方の石は冷たいままである。しかし、その二つの石の間が水で満たされていたならば、一方の石が持つ熱を水が運び、それが他方の石に伝わるだろう。そのように、水が存在することで、全体の温度を一定にしようとする傾向が生まれる。

遊牧民の働きはそれと似ている。それはもちろん、それ自体としても熱を持つものではあるが、ユーラシア大陸の一か所で生じた熱を、他の箇所に伝搬する媒質として機能してきた。彼らは中国で生まれた活動をヨーロッパや中東へ伝え、また、その逆の働きもした。そして、彼ら自身が文化を生み出し、ユーラシア全体にそれを広めることもあった。たぶん、世界は昔から一つだったのだろう。

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中華文明は、中原だけで完結しているわけではなく、遊牧民との関係の中で発達してきた文明である。それは中国だけでなく、世界の他の地域にも同様のことが言えると思う。

中国最古の王朝殷は商とも呼ばれ、その名前は、それが商人の国であったことを示している。殷は黄河の中流域に位置していたが、そこは南北東西をつなぐ交通の要衝であり、交易の拠点として栄えていた。北方のモンゴル高原からは馬や羊、南方の長江流域からは豊富な農産物、東方の満洲からは動物の毛皮や海産物、西域からは玉など、あらゆる文物が水陸の交通路を通って殷に集まり、それらが盛んに取引されていた。

そのような活発な経済活動が富の集積をもたらしたが、それは必然的に争いを生む。商人たちは、自らの財産や商品を守るために街を城壁で囲い、武装するようになる。その際、最も重要な戦力となったのが、馬である。騎馬部隊を用意することができた都市が、戦場においては圧倒的に有利であった。

おそらく古代の都市文明は、遊牧民の協力なしには築くことができなかったのではないか。それは周の王室が、西方の遊牧民とみられる姜の出身であったことからも分かる。つまり、中原の商人の財力と、騎馬遊牧民の軍事力とが結合することで、中国文明は誕生したと言えるのである。遊牧の世界と農耕の世界は、昔から一つであった。それらは互いに影響を及ぼし合いながら、文明世界を形作ってきたのである。

おそらくこれと同様のことが、中東やペルシャの歴史でも起きていたのだろう。アケメネス朝の軍事力は騎馬部隊によって支えられていたと考えられるし、七世紀以降のアラブ人によるイスラム帝国の建設も、遊牧民の持つ軍事力と無関係ではないだろう。そのように、遊牧民の目から世界史を読み直してみれば、興味深い発見があるのではないだろうか。

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