現代語訳大智度論 第十一巻

(釋初品中舍利弗因縁第十六は省略。釋初品中檀波羅蜜義第十七から始める)

初品の中の「施しの完成」の意義を解説する。

仏はシャーリプトラに告げた、「菩薩大人は安住しないという方法で智慧の完成の中に安住し、捨てることがないという方法で施しの完成を成就するべきである。施しを行う者と、施しを受ける者と、施しをされる財物の三者は存在しないゆえに」と。

問 1

智慧の完成とはどのようなものか。

ある人は言う、「欲望を離れた智慧のはたらきが、智慧の完成の現れである。なぜなら、すべての智慧の中で最も優れたものを智慧の完成と言うから。欲望を離れた智慧は最も優れたものだから、これを智慧の完成という」。

問 2

まだ欲望の束縛を断ち切っていない菩薩が、どうして欲望を離れた智慧をはたらかせることができるのか。

菩薩はまだ欲望の束縛を断ち切ってはいないが、その行いは、欲望を離れた智慧の完成のはたらきに似ている。このために、「欲望を離れた智慧の完成を行う」ということができる。例えば小乗の修行者が、暖法、頂法、忍法、世間第一法をそれぞれ修行するときに、まず欲望を離れた行いに似せて修行をすれば、容易に苦法知忍を得ることができる。この場合もそれと同様である。

ある人は言う、「菩薩には二種類ある。欲望を断ち切って清浄なものと、まだ欲望を断ち切らずに清浄ではないものである。欲望を断ち切って清浄な菩薩は、欲望を離れた智慧の完成を行うことができる」。

問 3

すでに欲望を断ち切って清浄である菩薩が、何のために智慧の完成という修行をするのか。

欲望を断ったといっても、菩薩の十地にまだ達せず、仏の国土を飾りたてず、人々を教え導くこともまだしていない。それゆえに智慧の完成という修行をする。

次に、欲望を断つということに二種類ある。一つは、貪欲、怒り、愚かさの三毒を断ち切って、心は人間の世界と神々の世界の中にある五つの欲望(色声香味触覚への欲望)に執着しない。二つは、人間の世界と神々の世界の五つの欲望には執着しないが、菩薩の功徳や果報に対する五つの欲望は、まだ捨て切れていない。このような菩薩は、智慧の完成の修行をするべきである。

例えば、アヌルッダ長老が林の中で座禅をしていたときなどは、浄愛天女たちが清浄で美しい姿でやってきて、長老を挑発した。長老が言うには、「淑女方よ、青色で来なさい。様々な色ではいけない(外界を青、黄、赤、白のそれぞれの色だけでできている、と観察する瞑想がある。貪欲から離れるための不浄間の一種)」と。そこで、青色による不浄を観察しようとして、できなかった。黄、赤、白色による観察もできなかった。そのとき、アヌルッダ長老は目を閉じてこう言った、「淑女たちよ、遠く去りなさい」。すると、天女たちは姿を消してしまった。天界の果報ですらこのように断ち難いものであるのに、菩薩の無量の功徳の果報は、どれほど我々の五欲を刺激するものだろうか。

また、例えばキンナラの王は、八万四千のキンナラたちと共に仏のもとに来て、琴を弾き、歌を歌い、仏を供養した。そのとき、山の王須弥山や他の山々、樹木、人間、獣たちもすべて舞い踊り、仏の傍らの大勢の修行者たちやマハーカーシャパも、みな自分の席で落ち着いていることができなかった。そこで、天鬚菩薩はマハーカーシャパ長老に問うた、「あなたは十二の托鉢の修行の中で、最も優れたものを修めた。それなのに、席に落ち着いていることもできないのか」。長老は言った、「地上と天上の世界の五つの欲望は、私を動かすことはできない。それは菩薩の神通力の功徳と果報のおかげである。私は心が動かされて落ち着かないのではない。例えば、須弥山の四方から風が起こっても、須弥山を動かすことはできない。しかし、宇宙の終わりが近づき、ヴィラムパカ風が起こったときには、あざやかな草が吹き飛ばされるように、須弥山も吹き飛ばされてしまうだろう」。
このように、二種類の束縛のうち一種類しか断ち切っていない菩薩も、智慧の完成の修行を行うことができる。これは論書(阿毗曇)の中の説である。

また、ある人は言う、「智慧の完成は欲望と共にある智慧である。なぜなら、菩薩は菩提樹の下で初めて欲望の束縛を断った。それ以前に限りない功徳があったといっても、まだすべての欲望を断ち切っていたわけではなかったのだ」。このために、菩薩の智慧の完成は欲望と共にある智慧だと言う。

また、「修行の意志を固めたときから菩提樹の下に至るまでの間、菩薩が持っていた智慧を智慧の完成という。仏と成ったときは、この智慧の完成を転じて一切智という」。

また、「菩薩の欲望を離れた智慧・欲望と共にある智慧を総称して智慧の完成という。なぜなら菩薩は涅槃を知り、仏の道を行うのだから。

以上から、菩薩の智慧は欲望を離れていると言えるだろう。まだ欲望の束縛を断ち切らず、悟りが得られていないために、欲望と共にあると言われるだけだ」。

また、「菩薩の智慧の完成は、欲望を離れたもの、作られたのでないもの、見ることのできないもの、対象のないものである」。

また、「智慧の完成は得ることのできないものだ。それは存在するものであり、存在しないものであり、永遠なるものであり、無常なるものであり、空なるものであり、真実のものである。それは認識・感覚・感覚の対象に含まれず、作られたものではなく、作られたのではないものでもなく、何らかの現象ではなく、現象でないのでもなく、何かに執着することもなく、執着しないこともなく、生じることもなく、消滅することもなく、有無の四種類の問いを逃れて、何かに依存することがない。

例えば火炎が、四方のどこからも手を触れることができないのと同様である。それは、手が焼けてしまうからである。智慧の完成は、どんな誤った見解も焼いてしまうので、誤った見解を抱く人は、触ることができない」。

問 4

上のように種々の人が智慧の完成を主張している。どれが真実なのか。

ある人は言う、「それぞれに道理がある。すべて真実である」。

経に言う。五百の修行者がそれぞれ永遠・虚無の二つの極端と、中道の意義を説明した。仏は「みな道理がある」と言った。

ある人は言う、「最後に答えたものが真実である。それを否定することができないから」。

ほんのわずかでも存在するというならば、それには過失があり、否定しうる。存在しないという場合も否定しうる。この智慧のなかには存在するものもなく、存在しないものもなく、存在するのでもなく存在しないのでもないものもないし、このような説明すらない。これを静寂にして限りなく、誤りのない教えという。これを、論破することができない真実の智慧の完成という。最も優れた教えであり、これを越えるものはない。転輪聖王(世界を支配する理想的王)が諸々の敵を降して、しかも自ら誇らないようなものである。智慧の完成もそのように、一切の議論を破り、破られることがない。

次に、この先の経の内容で、種々に智慧の完成について説明する。それは全て真実である。このように安住しないという方法によって、智慧の完成に安住すれば、六種の修行の完成を身につけることができる。

問 5

どうして、安住しないという方法で智慧の完成に安住すれば、六種の修行の完成を身につけられるといえるのか。

このような菩薩は、すべての現象は永遠でなく、無常でなく、苦しみではなく、楽しみではなく、空ではなく、真実ではなく、自分自身ではなく、自分自身がないのでもなく、生成・消滅するのではなく、生成・消滅しないのでもない、と観察する。このように深遠な智慧の完成の中に留まりつつ、しかも智慧の完成に執着しない、これを安住しないという方法で安住するという。もし智慧の完成に執着するならば、それは安住するという方法で安住するという。

問 6

仏の言うところによれば、すべての現象は欲望を根本としているはずである。もし、智慧の完成に執着せず、心に留めることがなければ、どうして六種の修行を完成させられるだろうか。

菩薩は人々を憐れむために、まず誓いを立てる。それは、「私は必ず全ての人々を涅槃に渡す」というものである。信仰の完成の力によって、諸々の現象は生じず、消えず、涅槃のようであると知っていても、さらに様々な功徳を積んで六種の修行を完成する。というのは、他の現象に安住せず、智慧の完成の中に安住するからである。これを「安住しないという方法で智慧の完成に安住する」という。

(大智度論釋初品中讃檀波羅蜜義第十八)

次に、初品の中の、施しの完成を称賛する部分を解説する。

問 7

施しにどんな良い点があって、菩薩は智慧の完成に留まって、施しの修行を完成させるのか。

施しには種々の良い結果がある。施しは宝の庫であり、つねに人につき従う。施しは苦しみを取り除くものである。それは人に安楽を与える。施しは人を善に導くものであり、天界へ至る道を明らかにする。施しは善のしるしであり、諸々の善人を収める。施しは安穏であり、臨終のときに心に怖れを抱かない。施しは慈しみの現れである。すべてのものを済うことができる。施しは安楽を集めることである。苦しみという悪を滅ぼすことができる。施しは大将である。物惜しみという敵を降伏させることができる。施しは素晴らしい果実である。神々が愛するものである。施しは清らかな道である。賢者・聖者が楽しむところである。施しは善を積むことである。幸福と善行の門である。施しは事業を成すということである。それは様々な原因を集める。施しは善を行うことである。それは善い結果を得るための種である。施しは幸福な行いである。善人のあかしである。施しは貧困を無くし、三悪道への道を断つ。施しを行う者は、あらゆる幸福と安楽という結果を得ることができる。施しは涅槃に至るための最初の原因となり、善人の集まりに加わるために必要な行いであり、称賛と名誉の集まるところ、大衆の中に入って困難がないという功徳の心、後悔しないという洞穴、善を行う道の根本、種々の喜びと楽しみの林、富貴と安穏という福を生じるもと、涅槃という道を得るための橋、聖者・菩薩・智者の行うこと、徳が乏しく知識が少ない者も、まねをするべきことである。

次に、例えば家事になった家があるとしよう。智恵の優れた者は事態を明確に把握し、火がまだ広がらないうちに急いで家財を運び出すことができた。そのため、家は全焼してしまったが家財は全て無事で、更に家を建て直すことができた。施しを良く行う人もこれと同じで、自分の身体が危うく脆いもので、財貨がはかないものであることを知って徳を積む。火が広がる前に家財を運び出すことは、後世に安楽を受けることを譬え、また、家を建て直したことは、幸福によって自らを楽しませることを譬えている。

一方、愚かで戸惑っている人は、ただ家を失うことを惜しんで、せわしなく働く。彼は狂った者のように思慮を失い、火の勢いがすでに猛烈になっていることにも気づかず、土や石も焼けてしまい、家は響きを立てて崩れ落ちてしまった。家財も全て失い、飢えと寒さに苦しんで人生を終えることになる。物惜しみする人もこれと同じで、自分の命がはかないもので、ほんのわずかの間でも維持するのが難しいものであることを知らない。それなのにこれを守り、惜しみ、愛するが、死ぬときになるとあっけなく失われ、肉体は土や木と同じように扱われ、財物は捨てられる。これは、愚かな人が悲しみ苦しんで望みを失うようなものである。

次に、優れた智恵を持つ人、心ある人は、よく目覚めていて、身体は幻のようで、財物は維持しがたく、万物は無常であり、ただ善行だけが頼りになり、人を苦しみの港から救い出し、大道に通じていることを知る。

次に、立派な人、心立ての良い人は大いに施しを行い、自分自身に利益をもたらす。度量の小さい人、心の小さい人は、他人のためになることができず、自分自身にも良いことにはならない。

次に、例えば勇士が敵を見たときには、これを必ず倒そうと思うだろう。そのように、智恵ある人は深く道理を悟って、物惜しみという敵は強大であるが、これを弱らせ、自分の意思に従わせ、よい福徳のみなもとに会い、施しをすべき時が来たら、そのことをよく自覚して、大いに施しを行う。

次に、よく施す人は、人に尊敬される。それは月が初めて出たときに、万人が愛するようなものである。その名声はどこにでも届き、天下の人々に頼りにされ、信じられる。よく施す人は、貴い人に思い慕われ、卑しい人に尊敬され、命が終わるとき、心に怖れがない。このような果報は現世に得られるものである。例えば、樹に大量の華が咲き、実がなっているのは、来世における幸福を意味している。そのように、生死をくりかえし五道を行ったり来たりするが、その中で親として頼めるものもなく、ただ施しだけが頼りである。もし天上や人間の世界に生まれ、清浄な生を得るならば、それは全て施しの結果である。象や馬などの畜生がよい養い手を得るのも施しの結果である。

施しの恩恵は富貴とぜいたくである。戒律を保つ人は、天上に生まれる。瞑想と智恵の恩恵は、心が清らかで汚れがなく、涅槃の道を得ることである。施しという善行は、涅槃の道の糧である。施しについて思いをこらすために、喜びが生じる。喜びが生じるために、一瞬のうちにものが絶えず生成消滅して無常であることを理解する。無常を理解するために、道を得る。人が木陰を求めて木を植え、あるいは花や果実のために木を植えるように、施しの果報を求めるために施しを行う。現世と来世における安楽は木陰を求めるのと同様であり、声聞や辟支仏の道は花であり、仏と成ることは果実のようなものである。これを施しの種々の功徳という。

(大智度論釋初品中檀相義第十九)

次に、初品の中の、施しの特徴の意味を解説する。

問 8

何をダーナ(檀、檀那)と言うのか。

ダーナを施しという。心にともなって生じる善い思いである。これをダーナという。

ある人は言う、「善い思いから生じる、身体と言葉による行いをダーナという」。

ある人は言う、「信仰あり、福徳を生み出す田(福田)があり、財物があり、この三者が合わさったとき、心にものを捨てるという思いが生じ、もの惜しみの心を克服する」。

ダーナに三種類ある。欲界の煩悩に関するもの、色界の煩悩に関するもの、煩悩と関係のないものである。心にともなって生じる思いは、色法を条件とすることはなく、業でもない。業にともなって起こるものは、前世になした業の報いではない。行修・得修という二種類の修、身証・慧証という二種類の証、思惟断・不断の二見断、有覚、有観法などは、凡夫も聖人も共に修行するものである。このようなことは論書の中に広く説かれている。

次に、施しに二種類ある。浄と不浄である。不浄の施しとは、無知による施しであり、分別がない。財物を求めて人に施しをしたり、人に恥ずかしくないように施しをしたり、人を咎めるために施しをしたり、人を怖れて施しをしたり、人の歓心を買おうとして施しをしたり、死を怖れて施しをしたり、人をわざと喜ばせようとして施しをしたり、自分に富があるから施しに応じたり、競争に勝ったために施しをしたり、ねたみのために施しをしたり、おごりのために、自分を尊く見せるために施しをしたり、名誉のために施しをしたり、まじないのために施しをしたり、不幸を避け、幸運を求めて施しをしたり、人を集めるために施しをしたり、貧しい人を軽蔑して、尊敬せずに施す。このような種々の施しを不浄の施しという。浄らかな施しとは、上に述べたことと異なる施しをいう。

次に、道のために施し、清浄な心が生じ、諸々の煩悩の束縛がなく、現世と来世の報いを求めず、人を尊敬し、憐れむために施すことを浄らかな施しという。浄らかな施しは涅槃へ至るもととなる功徳である。これを「道のために施す」という。

まだ涅槃を得ていないときの施しは、人間界と天界に生まれる原因となる。花飾りが出来たばかりでまだ壊れていないとき、香りは清潔で鮮明である。そのように、涅槃のために浄らかな施しを行い、果報の香りを得るのもこれと同じである。

仏が説くには、世に二人、得難い人がいるという。一人は出家の中の時間によらない解脱を得た僧、二人目は在家の信者で、清浄な施しを行うことができるものである。この浄らかな施しの境地は、限りない未来世に至るまでずっと、失われることがない。切符のように、その有効性が失われることはない。一方、施しの果報は、原因と条件が集まるときにはある。例えば、木は時季が来れば花を咲かせ、葉を出し果実を実らせるが、時期が来ないうちは、原因(木)があっても果実が実らないようなものである。この施しという行いも、これによって道を求めれば一人に道を与える。なぜなら、煩悩の束縛を滅ぼすことを涅槃というからである。施しを行うべきときには、諸々の煩悩が薄くなるために、涅槃を得る助けになる。

施す物を惜しまないから物惜しみの心が除かれ、施しを受ける者を尊敬するからねたみの心が除かれ、正直な心で施すからいつわりの心が除かれ、一心に施すから心の浮わつきが除かれ、深く考えて施すから後悔が除かれ、施しを受ける者の福徳を観察するために不敬の心が除かれ、自ら心を修めるから恥を知らない心が除かれ、人の美徳を知るために自分の行いを反省しない心が除かれ、財物に執着しないから愛着する心が除かれ、施しを受ける者を憐れむから怒りが除かれ、施しを受ける者を尊敬するからおごりの心が除かれ、善い行いをすることを知っているから無明が除かれ、果報があることを信じるから誤った思いが除かれ、確実に報いがあることを知っているから疑いの心が除かれる。このような種々の不善や煩悩は、施しをするときにはすべて薄まり、種々の善い心を得る。布施をするとき六種の感覚器官は清浄になり、善を求める心が生じる。善を求める心が生じるために、心のなかは清浄になる。果報の幸福を観察するために信仰心が生じ、心身が柔軟になるために喜びと安楽が生じ、喜びと安楽が生じるために心を集中させることができる。心を集中させるために、真実の智慧が生じる。このような諸々の善い心をすべて獲得する。

次に、施しを行うときは、心の中に近似的な八正道が生じる。施しの果報を信じるために正見(正しい見解)が得られ、正見の中で考えが乱れないために正思惟(正しい考え)を得、果報を求めないために正命(正しい生活)を得、つとめて施すために正精進(正しい努力)を得、施しを心に抱いて忘れないために正念(正しいおもい)を得、心が落ち着いて散漫でないために正定(正しい瞑想)を得る。このように近似的な三十七種の善い心が生じる。

次に、ある人は、施しは三十二相(仏の身体に備わる三十二の瑞相)の原因であると言う。なぜなら、施すときは心が堅固であるために、足下安立(足安平相、足が地面に安住している。偏平足)の特徴を得る。施しをするときは、五つのことがら(乞食、糞掃衣、露座、不食酥塩、不食魚肉?)が施しを受ける者をとりまく。これらの行いを原因として足下輪相(足の裏に車輪のしるしがある)を得る。勇敢さをもって施すために足跟広平(足跟円長相、かかとが広く丸い)の相を得る。施しは人を救いとるために、手足縵網(手足の指に水かきがある)の相を得る。美味なる飲食物を施すために、手足柔軟・七処満(両手・両足・両肩・頭頂が豊満)の相を得る。施しは命を助けるから、長指・身不曲・大直(?)の相を得る。施すときに、私もまた施そう、と言って、施しの心がますます盛んになるので足趺高(足の甲が高い)・毛上向(毛がすべて上向きに生えている)の相を得る。施すときに、施しを受ける者は施しを求め、集中してよく話を聞き、施す者は真心をこめて教えいさめ、すみやかに道を得させるために、伊泥延𨄔(ふくらはぎが鹿の王のように円満)の相を得る。施しを求める者を怒らず、軽んじないために、臂長過膝(手が膝に届くほど長い)の相を得る。求める者が欲するままに施し、言い訳をしないために陰蔵(男根が体の内部に隠れる)の相を得る。上等な衣服、臥具、金銀、珍宝を施すために、金色身と薄皮(皮膚が滑らかで黄金のよう)の相を得る。施すときは、目の前の人の意のままに、どんな望みも叶えることができるために、一一孔一毛生(一つ一つの毛髪が右旋している)と眉間白毫(眉間に白い柔らかい毛が生え右旋している)の相を得る。施しを乞う者に求められれば、「今与えよう」と言うために、上身如師子(上半身が獅子のようである)・肩円(肩が円く豊満)の相を得る。病人に薬を施し、飢え渇いたものに飲食物を与え、病を減らすという行いのために、両腋下満(両腋の下の肉が円満で、凹処がない)と最上味(最上の味覚)の相を得る。施す時は人にも勧めて施しを行わせ、その人をはげまし、施しの道に進ませるために、肉髻と身円如拘盧(身分円満相か?)の相を得る。乞い求める者があれば、与えようとする時に優しく真実の言葉をかけ、必ず与えて失望させないために、広長舌(舌が長い)と梵音声(音声が朗々としている)と如迦陵毘伽鳥声の相を得る。施す時は真実の言葉、人を利益する言葉を語るために、師子頬(顎骨が獅子のようである)の相を得る。施す時に施しを受ける者に奉仕し、心が清浄であるために牙白歯斉(歯並びがよく、白くきれい)の相を得る。施す時に、真実の言葉、人々を親しませる言葉によって語るために、歯密の相(歯に隙間がない)と四十歯の相(歯が四十本ある)を得る。施す時に怒らず、執着せず、平等心をもってその人を見るために、青眼の相(瞳の色が紺碧)と眼睫如牛王の相(まつげが牛王のようである)を得る。これを三十二相の原因をつくるという。

次に、七宝や人民、車、金銀、灯、房舎、香華を施すために、転輪聖王となって七宝を具えることができる。

次に、時宜にかなって施すために、果報もますます多い。仏が説くには、遠くに行く人、遠くから来た人、病人、看病する人、風が寒いとき、困難が多いときに施すことを時宜にかなった施しという。

次に、施しをするときに、その土地の人が必要とするものを施すために、果報がますます多くなる。

次に、荒れた土地で施すために、ますます多くのよい果報を得る。いつも施しを行って絶やさないために、ますます多くの果報を得る。重要なものを施すために、ますます多くのよい果報を得る。寺院や園林・池などを善人に施すならば、ことさらに多くの果報を得る。僧団に施すために、ますます多くの果報を得る。施す者と受ける者の両方に徳があるために、ますます多くの果報を得る。種々に施しを受ける者を迎えて尊敬するために、ますます多くの果報を得る。得難いものを施すために、ますます多くの果報を得る。


たとえば、大月氏国の弗迦羅プドカラ城に、一人の絵師がいた。名前は千那といい、東方の多利施羅タリシラ国へ行き、客となって絵を描くこと十二年に及び、三十両の金を得て、本国へ帰った。弗迦羅プドカラ城の中で太鼓を打って大法会を開く声を聞き、そこに行って修行僧たちを見たときに、清浄な信心が生まれた。そこで維那(幹事)にたずねた、

「この人々は一日にどれだけの食事をとるのか」

維那は言った、

「三十両の金で一日の食事には足りる」

そこで所有していた三十両の金を維那に渡し、

「私のために一日の食事を用意してあげてください。私は明日また来ます」

と言って、何も持たずに帰った。妻が彼にたずねた、

「十二年の仕事の報酬はどんなでしたか」

「三十両の金を貰った」

「その金はどこにありますか」

「すでに福田に植えてしまった」

「どんな福田ですか」

「修行僧たちに施したのだ」

妻は夫を縛って役所へ行った。裁判官がたずねた、

「どんな理由で来たのか」

妻が言う、

「私の夫が狂ってしまい、十二年間働いて得た三十両の金を、妻子を憐れまずに、すべて他人にあげてしまいました。それで定められたとおりに、縛って連れてきたのです」

裁判官は夫にたずねた、

「あなたはどうして妻子を養わずに、金を人に与えてしまったのか」

夫は答える、

「私は、前世で功徳を積まなかったせいで今世で貧困になり、諸々の辛い目に遇っています。もしいま福徳の種を植えなかったならば、来世においてまた貧しくなるでしょう。貧困が続いて脱け出すことができなくなります。私はいま貧困を捨てようと思い、すべての金を修行僧たちに施したのです」

裁判官は、この男の仏を信じる清らかな心から出た言葉を聞き、称賛して言った、

「これはとても行い難いことである。勤め励んでこのわずかな賃金を得、それをすべて修行者に施すとは。あなたは善人だ」

そこで身体から装飾品を外し、馬と村落をこの貧しい人に施し、語った、

「あなたは修行者たちに施したが、彼らはまだ食事をしていない。これはまだ種が植えられていないということだ。芽が出てはじめて、果実が実るのだ」


以上のことから、「得難きものを全て施すならば、そのよい果報は最も多い」という。

次に、世間の施しと、出世間の施しと、聖人が誉め称える施しと、聖人が誉め称えない施しがある。仏菩薩の施しがあり、声聞の施しがある。世間の施しとは何か。凡夫の施し、聖人が欲望と共にある心によって行う施し、これを世間の施しという。

次に、ある人は言う、「凡夫の施しを世間の施しという。聖人は欲望と共にある心によって施しを行っても、彼自身は欲望の束縛を断ち切っているので、出世間の施しという。なぜなら、聖人は行うことがないという瞑想を獲得しているから」

次に、世間の施しは不浄であり、出世間の施しは清浄である。

二種類の欲望の束縛がある。一つは愛着に属し、もう一つは誤った見解に属している。この二種類の束縛によってなされる施しを世間の施しといい、この二種類の束縛によらずになされる施しを出世間の施しという。三礙繋(三毒)の心によってなされる施しを、世間の施しという。なぜなら、原因と結果によって生じる諸々の現象の中には、実際には自分自身というものは存在しないのに、「私が与え、彼がそれを受け取る」と考えるからである。これを世間の施しという。

次に、私というものには定まった実体はなく、彼の存在に対して私という存在が定立されるだけだとすれば、彼にとっては彼自身が存在しないことになる。一方で、私が存在することに対して彼の存在が定められるのだとすれば、私自身の存在の根拠がなくなる。このように私自身という存在は定まるところがないから、実際には私というものは存在しないことが分かる。

一方、施される財物は、原因と結果の集まりとして存在が形づくられているだけであり、それらの財物のどれ一つとして、それだけで存在しているものはない。絹や布が一本一本の糸から構成されて一枚の面を形づくっているように、諸々の現象が集まることで財物は形成されている。絹布を構成する糸を取り除いてしまったら、絹布はなくなってしまう。諸々の現象もこのように、一つとしてそれ自体のかたちを持っているものはなく、そのかたちは常にそれ自体空なるものである。人はこれらの現象に対応する像を頭の中で作り出し、それを存在するものだと思い込むが、それは錯誤であって、真実ではない。このような思い込みの下で行われる施しを、世間の施しという。

心に三礙なく、事物の真実のすがたを知り、心が倒錯に陥っていない、これを出世間の施しという。出世間の施しは聖人に誉め称えられるが、世間の施しは聖人に誉め称えられない。

次に、清浄な施しは諸々の汚れをともなわない。これが諸々の現象の真実のあり方のように清らかであれば、聖人はこれを誉め称える。清浄でなく、欲望の束縛をうけ、心が倒錯し、執着をともなっている施しは、聖人に誉め称えられない。

次に、真実の智慧による施しは、聖人が誉め称えるものである。そうでなければ、聖人は誉め称えない。

次に、人々のために施すのでなく、諸々の現象の真実のあり方を知るために施すのでもなく、ただ生老病死を免れるために施しを行うことを、声聞の施しという。すべての人々のために施し、諸々の現象の真実のあり方を知るために施すことを、仏菩薩の施しという。

諸々の美徳を具えることができず、ただ少しばかりの果報を得たいと思うのが声聞の施しである。すべての美徳を完全に具えようとするのが仏菩薩の施しである。老病死を怖れるために施すのが声聞の施しであり、仏の道を糧とするために、また人々を救うために、老病死を恐れずに行う施しを仏菩薩の施しという。

ここで、菩薩本生経を説こう。阿婆陀那アヴァダーナ経には次のように説かれている――


昔、インドにヴァーサヴァという王がいた。同じく、バラモン階級の菩薩(修行者)がいて、ヴィラーマといった。この人は国王の先生となり、王に転輪聖王の行いを教えた。ヴィラーマは財力があり、限りない珍宝を持ち、このように考えた、

「人は私を貴く、財や富が限りなく、人々を豊かにしてくれたと評判している。今がその時だ。大いに施しをしよう。富貴は楽しいけれども、すべてのものは無常である。王家の暮らしは集中を妨げ、人をかるはずみで落ちつかなくさせてしまう。それは、猿が少しの間も一つ所に留まっていないようなものである。人間の人生は、雷が消えるよりも速く過ぎ去ってしまう。人間の身体は無常であり、もろもろの苦しみが潜む薮である。このような苦しみから逃れるために、施しを行うべきである」

このように考えて自ら布令を発し、インドのバラモンや出家者すべてに告げた。

「どうか皆さん、修行を中断して私の家に集まってください。満十二年の大施を行います」

飯と汁を海のように満たしてその上に船を走らせ、発酵乳で池を作り、米や麺で山を作り、バターで運河を作った。衣服、食事、臥具、薬はみな最高のものを用意し、十二年以上施しを続けようとした。八万四千頭の白象に甲冑、金の飾り、宝石を飾りつけ、四種の宝石で大きなのぼりを作り、八万四千頭の馬を飾りつけるのも、甲冑、金の飾り、四種の宝石で行い、八万四千両の車を金銀・琉璃・水晶で作り、外側を獅子や虎、豹の皮で覆い、白剣、美しい幕やその他の飾りでかざりつけた。八万四千の四部屋の寝室は、さまざまな色どりでどこまでも続いていた。種々の敷き布団は柔らかく滑らかに装飾され、朱い枕と錦の掛け布団を寝床に用意し、優美な衣服が揃えられ、八万四千個の金の鉢に金の粟が盛られ、銀の鉢には金の粟が盛られ、琉璃の鉢には水晶の粟が盛られ、水晶の鉢には琉璃の粟が盛られていた。八万四千頭の乳牛はそれぞれ二十リットルの乳を出し、その角は金で飾られ、白い毛織物を着せられていた。八万四千人の美女は端正でふくよかで、全員白真珠などの宝石で身体を飾っていた。概要は以上のとおりであり、一々記すことはできない。

その時、ヴァーサヴァ王や八万四千の小国の王や、その臣民、豪傑、長者たちは、それぞれ十万の金銭を贈って援助した。このように施しを設けて、そして施しは終わった。インドラ神がやって来て、ヴィラーマ菩薩に語った、

『天地の間に得難いものは、すべての人を喜ばせる。
 あなたはそれを全て得て、仏道のために施した』

そのとき浄居天にいた神々は姿を現して、詩によって誉め称えた。

『門を開いて大いに施しを行う。あなたがそれをしたのは
 人々をあわれむためだ。これを仏道を求めるというのだ』

また神々は考えた、

「我々はこの金のかめを閉じて、水を落とさないようにしよう。なぜなら、施しをするのにふさわしい福田がないから」

そこで魔王は浄居天の神々に語った。

「このバラモンたちはみな出家し、戒律を守り、清浄に修行を行っている。どうして福田でないことがあろうか」

浄居天の神々は言った、

「この菩薩は仏道のために施しをしているが、これらのバラモンはみな誤った見解を抱いている。だから福田とは言えない」

魔王は神々に語った、

「では、どうしてこの人が仏道のために施すことを知っているのか」

そこで浄居天の神はバラモンの姿となり、金のかめを持ち、金の杖を持って、ヴィラーマ菩薩のところへ行き、語った、

「あなたは大いに施しを行い、捨てがたいものをあえて捨てている。何を求めてそうするのか。七宝や千の子を得て、天下を治める転輪聖王になりたいのか」

菩薩は答えた、

「そんなことは求めていない」

「あなたはインドラ神となり、八兆の天女たちの主となりたいのか」

「いいえ」

「あなたは六欲天の主となりたいのか」

「いいえ」

「あなたは三千大千世界の主である梵天王になって、人々の祖父になりたいのか」

「いいえ」

「あなたは何を求めるのか」

このとき、菩薩は次の詩で答えた。

『私は無欲の境地を求め、生老病死を離れ、
 諸々の人を救い、そのようにして仏の道を求める』

変化へんげしたバラモンはたずねた、

「施す人よ、仏の道は得難い。あなたはとても苦労するだろう。あなたの心は優しく、楽しみになれている。この道の達成を求め続けることはできないだろう。私が先に語ったように、転輪聖王やインドラ神、六欲天主、梵天王になることは簡単である。これを求めたほうがよい」

菩薩は答えた、

「私の心からの誓いを聞きなさい」

『たとえ熱された鉄の輪が私の頭上で回っていても、
 一心に仏道を求めて後悔することはない。
 たとえ三悪道や人間界の限りない苦しみを味わうことになっても、
 一心に仏道を求めて退かない』

変化したバラモンは言った、

「施す人よ、善い哉。善い哉。そのように仏を求めることは」

そして詩によって誉め称えた

『あなたの専心の力は大きく、すべての者をあわれみ、
 智慧にかげりなく、仏になるのも遠くないだろう』

このとき天は様々な華を降りそそぎ、菩薩に供えた。浄居天でかめの水を閉めていた者は、姿を隠して現れなかった。そこで菩薩はバラモンの長老の前へ行き、金のかめから水を注ごうとしたが、口が閉じて水は出なかった。人々は怪しんだ、

「この大施にはすべてが具わっていて、大施を行う人の功徳も大きい。どうしてかめから水が出てこないのか」

菩薩は考えた、

「これは他人のせいではない。私の心が清浄でないためだろうか。施しが足りないからだろうか。どうしてなのか」

自ら十六種の祭祠に関する書を読んだが、彼の行いは清浄で欠点はなかった。このとき神々は菩薩に告げた、

「あなたは疑う必要も悔いる必要もない。あなたには分からないだろうが、このバラモンたちがよこしまで不浄であるためなのだ」

そして詩によって語った、

『この人々の誤った見解の網や欲望は、正しい智慧を破壊し、
 諸々の正常な戒律を離れ、虚しく苦しんで地獄に堕ちる』

「このために水が出ないのだ」

このように言い終わると、忽然として消えてしまった。そのとき魔王は種々の光明を放って人々の集まりを照らし出し、菩薩に詩によって語った、

『悪邪の海から出た行いは、あなたの正道に順わない。
 施しを受ける人々の中に、あなたのような人はいない』

このように言うと、忽然と消えてしまった。菩薩はこの詩を聞いて考えた、

「集まった人々の中に、私に等しいものはいない。水が出なかったのはこのせいなのだろう」

『十方の天地の中に善き人、清浄な人がいるならば、
 私はいま帰依し、稽首して礼拝いたします。
 右の手にかめを持ち、左の手に注ぎ、
 自ら願を立てる。私一人だけがこのような大施を受けるにふさわしい』

このとき、かめの水は空中から湧き出し、左手に注がれた。ヴァーサヴァ王はこの神秘を見て、心に尊敬の念を生じ、詩をとなえた、

『偉大なバラモンの主よ、清らかな琉璃色の水が
 上方より注がれ、あなたの手の中に落ちた』

バラモンたちの心にも尊敬の念が生じ、手を合わせて礼拝し、菩薩に帰依した。菩薩は次の詩を語った、

『私が施しを行うのは、三界の果報を求めるからではない。
 すべての人々のために仏の道を求めるのだ』

このように説き終わると、すべての大地や山川や樹木は六回振動した。ヴィラーマははじめにこう言った、

「この人々は供養を受けるにふさわしい。だから施そう」

既に受けるに値する者がいないことを知り、今は憐みのために、彼らに施しを行う。


このように、種々の施しはそもそも因縁から生じている。このように説かれている。これを外の施しという。

内の施しとは何か。身命を惜しまず、諸々の人々に施すことである。本生因縁(ジャータカ)には次のように説かれている――


釈迦牟尼仏がかつて菩薩であったときのことである。彼はそのとき大国の王であったが、世界に仏がおらず、教えもなく、修行者もいなかった。王は四方へ赴き、仏の教えを求めたが、ついに得られなかった。

そのとき一人のバラモンがいて、言った、

「私は仏の偈を知っている。私を供養すれば、あなたに教えてあげよう」

王はたずねた、

「どんな供養がお望みですか」

「あなた自身の肉体を灯火とし、私を供養すれば教えてあげよう」

王は考えた、

「私の体は危うく、脆く、不浄である。輪廻のなかで苦しみを受けることは数えきれないほどだ。しかし、まだ教えのために自分の身を犠牲にしたことはない。いま初めて自分の身体を使うが、全く惜しいとは思わない」

このように考えてチャンダーラ(屠畜を生業とするカースト)を呼び、自分の身体を割いて灯の柱を作り、白い毛織物で肉を包み、バターを注いでいっぺんに燃やしてしまった。全身の火が燃え尽きたとき、バラモンは一つの偈を与えた。

また、釈迦牟尼仏は昔、一羽の鳩になって雪山に住んでいた。あるとき大雪が降り、一人の人間が道に迷い、飢えと寒さに追い詰められて苦しみ、命が尽きようとしていた。鳩はこの人を見るとすぐに飛んで行って、薪を集めて火をつけた。そして自分の身を火に投じて、この飢えた人に施した。


このように、頭目髄脳などを人々に施し与える話は様々に伝えられている。本生因縁経の中にも広く説かれている。このようなことどもを内の施しという。

このように、内外の施しには限りがない。これを施しの特徴という。

(大智度論釋初品中檀波羅蜜法施義第二十)

初品の中の「施しの完成」の法施(教えの施し)を解説する。

問 9

教えの施しとは何か。

ある人は言う、「常に善い言葉で、人のためになることを語ることを、教えの施しという」

次に、ある人は言う、「諸々の仏の言葉、優れた善い教えを人のために解き明かすことを教えの施しという」

次に、ある人は言う、「三種類の真理によって人に教える。一つはスートラ(経)、二つはヴィナヤ(戒律)、三つはアビダルマ(論)」

次に、ある人は言う、「四種類の経典によって人に教える。一つはスートラ、二つはヴィナヤ、三つはアビダルマ、四つは雑多な経典である」

次に、ある人は言う、「概略を述べれば、二種類の真理によって人に教える。一つは小乗の教え、二つは大乗の教えである」

問 10

ダイバダッタやハタも、三蔵、四蔵、小乗法、大乗法によって人に教えていたが、地獄に堕ちてしまった。どうしてなのか。

ダイバダッタは多くの誤った考えを抱いていた。ハタには偽りを語る罪が多くあった。彼らは道のために清浄に教えを説いたわけではなく、むしろ名誉や人々の奉仕を求めて行ったのだ。悪心の罪のために、ダイバダッタは生きながら地獄に堕ち、ハタは死後に地獄に堕ちた。

次に、ただ言葉だけに注目して、教えの施しと言うのではない。常に浄らかな心や善い心をもって、すべての人に教えることを教えの施しというのだ。例えば財物の施しの場合は、善い心によって行われるのでなければ、福徳とは言わない。教えの施しも同様である。浄らかな心、善い思いによって行われるのでなければ、教えの施しとは言わない。

次に、説法をする人は、浄らかな心と善い思いをもって三宝を讃歎し、罪悪と福徳の門を開き、四つの聖なる真理を示し、人々を教え導いて仏の道に入らせる。これを真実で浄らかな教えの施しという。

次に、概略して言えば、二種類の説法がある。一つは人々を悩まさず、善心をもって憐れみ慈しむもの。これは仏の道に通じる。二つは、あらゆる事物の空という真理を明らかに知るもの。これは涅槃の道に通じる。人々の中で憐みの心をもってこの二種類の教えを説き、名声や利益を重んじない。それが清浄なる仏の教えの施しである。

次のような話がある――


アショカ王は一日に八万の仏画を描かせ、まだ道を得てはいないけれども、仏の教えの中にわずかに安らぎを見出していた。日々に諸々の修行僧を招き、宮殿の中で供養し、法師を滞在させて教えを説かせた。その中に、一人の三蔵に通じる法師がいた。彼は年若く聡明で、礼儀正しかった。王に説法するために、彼は王の傍らに座った。彼の口からは普通とは違う香りがただよっていたので、王は怪しんだ。その香りによって王宮の人々を驚かせようとしているのではないか、と。王はその僧に言った、

「口の中に何を入れているのだ。口を開いて見せろ」

僧は口を開いたが、中には何もなかった。水で口をすすがせたが、香りは元と同じだった。王はたずねた、

「大徳よ、この香りは最近出てきたものなのか。昔からのものか」

僧は答えた、

「ずっと昔からのものです。たまたま出てきたものではありません」

王は問う、

「本当に昔からなのか」

僧は詩によって答えた。

『カーシャパ仏の時代に、この香りの因縁を集めた。これは昔からあり、常に新しく出てくるようである』

王は言った、

「大徳よ、簡単に説明されてもまだ分からない。私に分かるように説明してくれ」

「王よ、集中してよく聞きなさい。私は昔、カーシャパ仏の弟子たちの中で説法に長けた僧となり、つねに喜んで人々に演説し、カーシャパ仏の限りない功徳や、すべてのものごとの真実のあり方、限りない教えの門を心を込めて讃歎し、すべての人々を教え戒めていました。それ以来、いつも口からかぐわしい香りが出て、今日まで絶えることがなかったのです」

『この香りは、草木の花のどんな香りよりも優れ、
 すべての人を喜ばせる。この香りが途絶えることはない』

このとき国王は、恥ずかしさや喜びがないまぜになり、僧に語った、

「今までに聞いたことのないお話です。説法の価値や、その果報の大きさはよく分かりました」

僧は言った、

「これは(説法という種の)花にすぎず、まだ果報ではありません」

「その果報とはどのようなものですか。どうか説き示してください」

「果報は概略して言えば十種類あります。王よ、よく聴きなさい」

僧は王のために詩を語った、

『大名声と、礼儀正しさと、安楽と、人々からの尊敬とがあり、
 威光は太陽のように輝かしく、すべての人々に愛され、
 弁才あり、大いなる智慧があり、すべての束縛を滅ぼし尽くし、
 苦しみがなくなり涅槃を得る。これが十種の果報である』

王は言った、

「大徳よ、仏の功徳を誉め称えることで、どうしてそのような果報が得られるのですか」

僧は詩によって答えた、

『仏の諸々の功徳を誉め称え、すべての者に等しく聞かせる。
 この果報として、大きな名声を得る。

 仏の真実の功徳を誉め称えて、すべての者を喜ばせる。
 この善行の報いとして、いつまでも礼儀正しい。

 人に悪い行いとその報い、善い行いとその報いについて説き示し、人々に正しい道を行かせ、安楽を得られるようにする。
 この善行のために安楽を受け、常に喜びの中にある。

 仏の功徳の力を讃じ、すべての人を心服させる。
 この善行の報いとして、常に人から尊敬される。

 説法の灯によって、人々の眼前に真理の道を照らし出す。
 この善行のために、威光は太陽のように輝く。

 種々に仏の徳を讃じて、すべての者を喜ばせる。
 この善行の報いとして、常に人から愛される。

 仏の徳に限りなく、終わりがないことを巧みな言葉で誉め称える。
 この善行の報いとして、弁才は尽きることがない。

 仏の諸々の素晴らしい教えは、他の何にもまして優れていると誉め称える。
 この善行の報いとして、智恵は優れて清浄である。

 仏の功徳を讃ずるとき、人の煩悩を弱めさせる。
 この善行の報いとして、煩悩の束縛が尽き、諸々の汚れが消える。

 二種類の束縛が尽きるために、自分で涅槃を体現する。
 それはまるで、大雨によって大火が燃えつき、冷たくなるかのようである』

僧は重ねて王に告げた、

「もしまだ分からないことがあれば、いま質問してください。智恵の矢によってあなたの疑いの軍勢を打ち破りましょう」

王は言った、

「法師よ、私の心は喜びに満たされ、よく理解して疑いはない。大福徳の人は、善く仏を誉め称えた」


このように種々の因縁によって、教えを説いて人を救う。これが教えの施しである。

問 11

財物の施しと教えの施しは、どちらが優れているのか。

仏が説くには、二つのうち、教えの施しの方が優れている。なぜなら、財物の施しの果報は欲界の中で得られるが、教えの施しの果報は三界の中にあることもあり、三界の外に出ることもあるからである。

次に、財物の施しの果報は、清らかさが少なく、汚れが多い。教えの施しの果報は、汚れが少なく、清らかさは多い。

次に、財物の施しをたくさんするためには、人の助けを借りる必要がある。教えの施しは心から出るので、人の助けを必要としない。

次に、財物の施しは身体的機能を成長させるが、教えの施しはけがれを離れた五根・五力・七覚支、八正道を完成させる。

次に、財物による施しは、仏がいてもいなくても、常に世間に行われている。しかし教えの施しは、仏がいる世界でだけ行われる。それゆえ、教えの施しがめったにないものであることを知りなさい。どうしてめったにないのか。有為の声聞・辟支仏は、説法することはなく、直行、乞食、空を飛ぶ、変化などによって人々を救う。

次に、教えの施しの中から財物の施しが現れ、諸々の声聞、辟支仏、菩薩や仏までもがそこから出現する。

次に、教えの施しによって、諸々の事象が煩悩にとらわれているか、煩悩を離れているか、物質的な現象か、物質を離れた現象か、作られたものか、作られないものか、善か、不善か、善でも不善でもないか、常にあるものか、偶然のものか、存在するものか、存在しないものか、あらゆる現象の真実のあり方は清浄であって、破壊されうるものかどうか、といったことを分別できる。

このような真理は、概略を言えば八万四千の経典であり、広く説けば限りはない。このような種々の真理を、教えの施しにしたがって理解することができる。それゆえ、教えの施しは優れている。

この二種の施しの集まりを檀那(ダーナ)という。この二種の施しを実行して仏になることを願えば、あなたは仏の道に入ることができる。まして、それ以外のことが実現できることは言うまでもない。

問 12

四種類の施しを檀那という。財を施すこと、教えを施すこと、無畏(怖れがないこと)を施すこと、煩悩の滅を施すことである。どうして無畏の施しと煩悩の施しを説かないのか。

無畏の施しは戒律を守る修行と異ならないので、説かなかった。煩悩の施しは智慧の修行と同じことなので、説かなかった。ここで六種の修行の完成(六波羅蜜)を解説するのでなければ、代わりに四種の施しを解説していただろう。

<第十一巻 終>

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