日本的近代

近代とは何か。近代は、工業化と資本主義、それに対抗する思想としての共産主義など、様々な要素によって特徴づけられる。

共産主義が歴史に現れるに際して、日本は重要な役割を果たした。日露戦争における日本の勝利がロシア革命を引き起こし、ロシア帝室の権威を低下させた。その後、第二革命によってロシア帝国は滅ぼされ、ソヴィエト政権が成立した。つまり、日本の存在がなければ、共産主義国家が世界に出現することはありえなかったのである。したがって、近代という時代が形成されるにあたって、日本は積極的にその役割を果たしたと言える。

次に、いわゆる進歩史観と言われるものの起源について考えてみたい。歴史は進歩するものであるという考えは、ヘーゲルの中にも見られる。しかし彼が説いたのは、精神の自己発展としての歴史であり、非常に回りくどく、分かりにくいものである。それは、進歩史観という言葉によって我々が想起するイメージからは、かけ離れているように思われる。

過去から未来へ向かって、歴史は進歩を続けて行く。このような単純な観念は、ヨーロッパの思想家の中には見出しえないものである。むしろ我々は、次のような文章に進歩史観の原型を見出すのではないだろうか。

宮沢賢治の『なめとこ山の熊』という童話の中で、作者は次のように独白する。
「けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」
小十郎という猟師が獲ってきた熊の毛皮を、安く買い叩こうとする商人に対しての言葉である。ここには、世界が進歩するという観念が、非常に単純な形で表現されている。このような、進歩に対する素朴な信念というか信仰というものは、日本人に特徴的なものではないだろうか。

我々は、進歩史観というものを、ヨーロッパに由来するものだと信じ込んでいる。だが、実際はそうではない。それは、日本において形成された思想だと考えられるのである。

そして、その起源をさらに尋ねるならば、我々はそこに法華経の精神を見出す。世界が一つの完成に向かって進歩を続けるという観念は、法華経において示される、あらゆる衆生が、たった一つの真理に向かってたゆまず進み続ける、という宗教的なヴィジョンと、ぴたりと一致するのである。ゆえに、日本的な進歩史観の起源は法華経にあると言える。

そして、このような進歩に対する観念が、日本人の行動を支え、近代という時代を作り出していったのだとすれば、近代的な思惟というものは、それ自体、法華経によって特徴づけられていると言えるのである。つまり近代とは、法華経の時代であった。

したがって、もしも、近代の勝利によって歴史が終わったのだとすれば、それは法華経の勝利を意味している。日本文明は法華文明であり、それこそが真実の文明である。

 南無妙法蓮華経。

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