科学者の責任

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 地球温暖化の原因は二酸化炭素である、ということを否定しようとする人間は、たとえばこんなことを言う。
 いわく、地球の歴史上、気温の変動は絶えず起きていることである。恐竜が生きていた時代には平均気温は今よりも十度高かったし、氷河期には五度低かった。そのように気温の変動は常に起きているので、現在起きている温暖化も自然現象として説明できる、という議論である。

 だが、恐竜が生きていたのは一億年前である。氷河期は十万年前である。一方で、我々が経験している温暖化は、この百年で起きていることである。一億年に十度の変化と、百年に一度の変化とでは、全く異なる現象である。これを同列に論じることはできない。
 現在起きている温暖化は、地球の歴史から見ても異常な速さで進んでいるのである。そこには必ず何らかの原因がなければならない。

2

 このように全く異なる現象であるにもかかわらず、データの見方を知らない人々は、同じ一という数字だけを引っ張ってきて、これらは同じ現象だと言おうとする。
 科学者の目から見れば、温暖化の原因が二酸化炭素であることはほぼ確実である。しかし、百パーセントと断言できるわけではない。なぜならば、その仮説はまだ検証されていないからである。

 科学の正確さは、その実証性によって保証される。どれだけ優れた仮説であっても、それが実験によって確かめられなければ、正しいものだとは認められない。ゆえに、二酸化炭素が原因であるという仮説も、それが実証されるまでは、百パーセント正しいとは言えないのである。この場合、実証とは、実際に二酸化炭素を減らしてみて、温暖化が止まることを確認する、ということである。
 逆に言えば、もはや実証だけという段階まで来ている。これまでの研究によって、他の仮説はほぼ否定されており、あとは実証実験をするだけでよい。そういう所まで来ているにもかかわらず、訳の分からない連中がギャーギャーわめいているせいで、成果を出すことが難しくなっている。困ったことである。

3

 だが、原因の一端は科学者にもある。科学者の議論は、基本的に真実を探求するためのものであり、相手も自分と同じだけの誠意を持っている、ということを前提にしている。ゆえに彼らは、事実を無視し、都合のいいデータだけを見て、好き勝手なことを言うような、誠意のかけらもない連中を相手にした経験がないのである。
 しかしこれからは、そういう人々を相手にした議論の仕方も学ぶべきだろう。彼らが社会的な責務を果たすために、それは是非とも必要なことである。科学者は、自分たちが発見した事実を、社会に伝える手段を持たなければならない。
 簡単に言えば、無知な連中を容赦なく論破して、恥をかかせてやればよい。相手を追い詰め、やり込める議論の方法を学ぶべきである。

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