政治と学問

1

民主主義であろうが何主義であろうが、実際に政治を行うのは一人の人間である。ゆえに、政治の場で問題となるのは、その人間の資質である。多くの人々に選ばれたからといって、その瞬間に、その人が優秀な人間に変わるわけではない。ゆえに、問題は、いかにして良い資質を持った人間を育てるか、ということであって、どんな人間を選べばよいか、ということではない。

たとえば、縄文人が石包丁を作ろうとしているとしよう。地面に落ちている石の中で、最もよい形をした石を拾ってきても、それは、天然の石を加工して作った石器にはかなわない。ちょうどそれと同じように、よい人間を選ぶ努力をするよりも、よい人間を作る努力をするほうが、合理的である。

人間の資質は、教育によって作られる。よい人間は学問によって作られる。そして学問とは、古典を学ぶことである。孟子を学ぶことである。ルソーやロックをいくら学んでも、何の足しにもならない。西洋の学問を学ぶよりも前に、人間はどうあるべきか、という根本のところを学ばねばならない。主義や主張はどうでもよい。そんなものは、実際の政治とは何の関係もない。それよりも、自分の精神を磨くことが肝要である。

政治とは教育である。教育が政治を作り、人を作り、国を作る。あらゆるものの根底には学問がある。学問によって、人は人と成るのである。

2

社会に降りかかるあらゆる困難は、学問の不足を原因としている。社会とは、人間の集まりである。したがって、社会を構成する一人ひとりの人間の質が低下すれば、社会全体の質が低下することになる。これは、学問を疎かにすることから生じる害である。

無責任な人間が集まれば、無責任な社会ができる。そのような社会には、いかなる秩序もありえない。責任感のある人間が集まれば、責任感のある社会ができる。それは、秩序のあるよい社会である。一人ひとりの人間の精神が、社会の精神を作る。政治家が社会を作るのではない。ゆえに、この社会に問題があると感じたならば、政治家の文句を言う前に、自分自身の精神を省みるべきである。

3

民主主義を実現するために、選挙は別に必要ない。政治家が国民の意見を聞けば、それが民主主義なのであって、それは、あらゆる政治の基本である。政治家を多数決で選ばなければ、彼らが国民の意見を尊重しない、と決まっているわけではない。選挙をせずとも、政治家が国民のことを慮るならば、それでよいのである。

ルソーはそれを一般意思と呼んだようだが、中国や日本では、それを天命と呼ぶ。そして、天命を得ない為政者は廃してもよいのだ、と孟子は言った。これが民主主義でなくてなんであろうか。

天命は民衆の中にあるのではない。民衆の声を聴こうとする為政者の意思こそが、天命である。この点で、民主主義とは考え方が逆である。民主主義の根底にあるのは、自分の意思を他人に強制しよう、という考え方である。一方で、儒教は自発性に基づいている。他人に強制しようというのではなく、その良い部分を伸ばそう、という発想である。浩然の気を養え、ということは、天命に従う意思を養え、ということである。一般意思は、そこにあるものではなくて、育てるべきものである。

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