『なめとこ山の熊』について

宮沢賢治に、有名な『なめとこ山の熊』という童話がある。ぜひ読んでみてもらいたい。すでに色々な解釈が与えられているが、思うに、そのモチーフは捨身飼虎であろう。物語の最後で小十郎は如来となり、熊たちはその弟子として悟りを開いたのだろう。

ときどき、この童話に熊と人間の対称性を読み取ろうとする人がいるが、それは正しい解釈ではない。宮沢賢治の童話を、仏教から切り離して理解することはできない。

趙州和尚は、犬に仏性はないと言った。私の解釈では、それは、犬には言葉がないからである。犬は人間の言葉が分からないので、仏の教えを聞くことができない。だから、仏性がないと言われるのである。

これは虎も同じである。虎には言葉がない。だから、虎に教えを授けるときは、自らの身をもってするしかない。それが捨身飼虎のモチーフであり、『なめとこ山の熊』はそれを踏襲していると思われる。

熊の言葉は、小十郎にしか分からない。それは、逆に考えれば、小十郎の言葉ならば、熊にも通じるということである。そのような小十郎の知恵は、慈悲の心によって生まれたものである。小十郎の姿は、慈悲と知恵によって衆生を導く菩薩そのものである。それゆえに、小十郎と熊の関係はどこまでも非対称なのである。

しかし、こういった解説は、あまりにも無粋かもしれない。趙州無字は自分でぶつかってみたほうがいいし、文学作品はひとりで味わえばよいのだから。

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