女性は家事を行うべきか

最近は、女性は料理が上手いほうがよい、などと言うと、古い価値観だと批判されるようになった。だが、男性も家事をやるようになったからといって、女性が家事をやらなくてよくなったわけではない。家事の半分を男性がやるならば、残りの半分は女性がやるわけである。そうすると、やはり料理が上手いに越したことはない。結局、女性には以前と同じものが求められ、さらに賃労働までこなす必要がある、ということになる。

アダム・スミスによれば、経済の発展は分業と機械化によってもたらされる。一人の人間がすべての仕事をこなすのではなく、それぞれの仕事を専門に行う人間がいることで、社会全体の生産性は向上する。農家は小麦を作り、製粉屋は小麦から小麦粉を作り、パン屋は小麦粉からパンを作る。そのように、一連の仕事を細分化し専門化することで、仕事が効率化され、社会の富は増える。これが『国富論』においてスミスが述べたことである。

一方、現代社会においては、男女の平等が進むことによって、妻も夫も共に、賃労働と家事の両方を行わなければならなくなった。以前であれば、家事は妻の仕事で、賃労働は夫の仕事というふうに、分業が行われていたわけである。その分業を廃止し、それぞれの人間がすべての仕事をこなすようになれば、社会の生産性が低下するのは当然である。つまり男女平等が意味することは、女性の権利のためならば、社会全体の生産性が犠牲になっても構わない、ということであるらしい。これが新しい価値観なのだろうか。


一般的に言って、新自由主義者は、男女の平等を支持する傾向がある。一方で彼らは、経済規模の拡大に熱心である。だが、上述の議論に従えば、男女の平等は社会の生産性を低下させ、富の総量を減らす働きがあるはずである。彼らはどうして、これらが両立すると考えているのだろうか。

おそらく彼らは、社会的な分業をさらに進めようと考えているのだろう。たとえば古代アテネでは、自由民と奴隷は厳密に区別されていた。奴隷は家事や肉体労働を行い、自由民は付加価値の高い仕事に従事していた。このような社会的分業によって、古代ギリシャの都市国家は、高い経済力を発揮できたのである。

新自由主義者が理想とする社会も、これと同様の奴隷制社会だと考えられる。自由民の女性が家事から解放される一方で、奴隷の男性は家事に従事させられるようになる。これによって社会的分業が成立し、仕事は効率化され、経済規模は大きくなるわけである。この社会において、男女は平等だが、自由民と奴隷との間には厳然たる格差がある。これが、我々が受け入れるべき新しい価値観である。

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