価値形態論批判

私はこれから経済学批判を行おうと思う。といっても、私にできることは限られている。手許にあるのは『資本論』だけで、経済学の知識もない。しかし私は、マルクス経済学を木っ端微塵に吹き飛ばすつもりである。まず、価値形態論批判から始めよう。

概説

価値形態論の目的は、商品価値の存在を既成事実とすることである。商品には、使用価値とは異なる真の価値が存在する。それは様々な形をとって現れ、その一つが交換価値であり、もう一つが使用価値である。ある意味で、価値形態論は、使用価値を相対化することを目的としている。それが商品に内在する価値の一側面にすぎないことを強調することで、交換価値の優位性を印象付けようとしている。マルクスにとって、商品に価値が内在していることは事実であり、その存在が疑われることはない。

彼にこの信仰を可能にしたのは、商品価値は人間労働の表現である、という発見であった。そして、抽象的な人間労働が存在するという仮定が、商品価値の実在性を彼に信じさせるに至った。つまり、商品の価値は、すべての人間労働を均質なものとみなすことによって、初めて実現されるのである。

価値形態論が明らかにしようとすることは、どのようにして、使用価値が交換価値へと変化するのか、ということである。そこで、彼はまず、使用価値を人間労働へと変換する。次に、人間労働を抽象化することで、使用価値をも抽象化してしまう。抽象化された使用価値は、労働時間の大小によって計量可能なものとされ、かくして商品交換の量的な関係が導かれる。その交換関係において現れる価値が、交換価値となる。

使用価値はそれぞれの商品において質的に異なるものであるから、それを比較することはできない。つまり、商品の現実のはたらきに注目する限り、交換関係を導くことはできない。そこで、商品を何らかのやり方で抽象化し、商品相互の違いを捨象する必要があった。その方法が、使用価値と人間労働を関連付けることであった。

たとえば、鉄と小麦の使用価値は全く異なるので、そこに等価性を見出すことはできない。しかし、鉄を産出する人間労働と、小麦を産出する人間労働の間には、等価性を見出すことができる。なぜならば、人間はみな平等だからである。つまりマルクスの商品分析は、人間平等論を基礎にしている。商品の有用性を一度人間労働に還元し、人間の平等性を経由して、商品の平等性に帰ってくる。これが価値形態論のからくりである。

彼にとって、商品の価値は、人間精神の価値と同じものである。ゆえに、人間の精神が不可侵の神聖さを帯びているように、商品の価値も犯すべからざるものであり、他の何によっても取り替えのきかないものである。そのため、使用価値や交換価値が商品の価値を生み出すのではなく、商品の価値が使用価値や交換価値として表れるのだ、と彼は主張する。「価値」が神であり、「使用価値」と「交換価値」はそのペルソナにすぎない。これが商品のトリニティである。人間平等論がキリスト教に類似の宗教にすぎないことに留意すれば、彼の経済学もその同類であることが分かるであろう。

また、この点に注意すると、農作物が、商品としての価値を必ずしも有していないことが明らかになる。たとえば、野原に自然に実っている野イチゴを採取した場合、その労働力は極小である。しかし、野イチゴは食料として一定の使用価値を持っている。ゆえに、もしも人間労働によって商品価値が生まれるのだとすれば、極小の商品価値と有限の使用価値が同一物に共存していることになる。ここに、労働によって量られる商品価値と、実用によって量られる使用価値との不釣り合いが生じてくる。

一般的に言って、農作物は、それが持つ商品価値よりも多くの使用価値を有している。もちろん、使用価値を量ることはできないので、このような言い方は無意味かもしれない。しかし、使用価値そのものを比較することが不可能なのであってみれば、商品の価値を比較するという行為自体が、一種の欺瞞であることも明らかである。マルクスは、人間労働の分析を通して、その詐欺にお墨付きを与えようとしたわけである。

詳説

さて、以上で価値形態論の概略が明らかになった。次に、価値形態論の詳しい分析を始める。我々はまず、使用価値の定義を確認しよう。以下、岩波文庫『資本論(一)』から引用を行いつつ、議論を整理する。

引用1

「一つの物の有用性は、この物を使用価値にする」第一篇第一章第一節p.68

引用2

「使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される」同p.69

 使用価値とは、商品に内在する力である。この力が発現したときに、商品は有用性を発揮する。アリストテレスの用語を使えば、使用価値が可能態であり、商品の使用が現実態である。ある商品には、それが有用性を発揮していない間も、有用性を発揮しうるという性質が存在すると考えられている。
 次に、交換価値の定義を確認する。

引用3

「商品に内在的な、固有の交換価値というようなものは、一つの背理のように思われる」同p.70

引用4

「同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している」同p.71

引用5

「与えられた小麦量は、何らかの量の鉄に等置される、例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか? 二つの異なった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値であるかぎり、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない」同p.71


交換価値は、商品の交換において現れる能力である。それは、同一価値の商品と交換されうる能力として定義される。この交換価値には、使用価値とは異なった性質がある。引用3によれば、それは商品に内在するものではなく、また、商品に固有のものでもない。引用5によれば、交換価値は、すべての商品に共通するものであり、かつ、それぞれの商品とは異なる第三のものである。

ここには、プラトンのイデア説と同様の曖昧さが含まれている。プラトンによれば、現実の机とは別に、机のイデアというものが存在する。ある机が机であるのは、それが机のイデアを保持しているからである。このイデア説に対して、アリストテレスは次のように問い返した。では、イデアは一つなのか、それとも複数あるのか。現実の机は複数個存在するのだから、机の数と同じだけのイデアが存在するのか。逆に、もしもイデアが一つしかないのだとすれば、どうして複数個の机が存在しうるのか、と。

交換価値は、すべての商品に含まれてはいるが、それらの商品のどれでもない。しかし、その交換価値こそが、商品を商品たらしめているのである。では、交換価値とはいったい何なのか。それはどのような形で、商品と関係しうるのか。この問題を考察したのが、次に引用する部分である。

引用6

「価値として、上衣と亜麻布は同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である」同第二節p.82

引用7

「価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるものであるということ」同第三節p.89

引用8

「上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味する」同p.96

引用9

「一商品の価値は他の商品の使用価値で表現される」同p.97


マルクスが与えた回答は、交換価値は、商品同士の社会的関係を通して現れる、というものである。これは至極あたりまえである。なぜならば、商品が交換されたからといって、商品そのものの性質が変化するわけではないのだから、交換価値は、商品の外にあるのでなければならない。

しかし、それが商品の外にあるのだとすれば、なぜそれによって商品が交換されうるのかが説明できなくなってしまう。交換価値とは、商品が交換されることを可能にするものである。一定の交換価値を持つ商品は、同一の価値を持つ他の商品と交換可能である、という性質を持つ。ここで、商品が交換されない間も、それは交換されうる能力を保持している、と考えられている。その能力が交換価値であり、アリストテレスの術語でいえば可能態に相当する。

では、交換価値の現実態とは何かといえば、商品が実際に交換される、という現象である。しかしながら、商品の交換という現象において、商品そのものは何の働きも行っていない。交換価値が商品に内在するのだとすれば、その発現は商品において起こらなければならない。そうではないということは、交換価値は商品に内在するものではない、ということになる。しかしながら、それが商品の外に存在するのだとすれば、どうして商品が交換されうるのだろうか。

たとえば、商品の交換という社会的な現象そのものが交換価値なのだとすれば、交換という現象自体が交換可能なものになってしまうだろう。しかし、それは不合理である。ゆえに、交換価値は社会的な関係の中に存在する、と言うことはできない。その場合、その関係自体が交換可能なものになってしまうからである。

商品が交換されうるものであるためには、交換価値は商品の中に存在するのでなければならない。しかしながら、どのように考えても、それは商品の中には存在しえない。では、商品の中にも外にもどこにも存在しえないのだとすれば、どうしてそれが存在すると言いうるのだろうか。どこにも存在しないものが存在するということは、単に不合理である。つまり、交換価値は存在しない。それはただの幻想である。


しかし、マルクスはあきらめない。次に彼が訴えるのは、価値の存在である。この本を注意深く読むと、彼が「価値」と「価値形態」を区別していることが分かる。「価値」は商品に内在する固有の性質であるが、「価値形態」は他の商品との関係において現れる「価値」の表現である。つまり、商品の内的な性質を「価値」と呼び、商品の社会的な性質を「価値形態」と呼ぶことで、それぞれを区別しているわけである。

では価値とは何かといえば、それは基本的に不可知である。価値の表現形態については、商品の社会的な関係を通して十分に知りうるものとされている。しかしながら、それらの価値形態を生み出すもととなる価値そのものについては、ほとんど触れられることがない。しかし、それら価値形態の総体が価値である、とも言われていない。

引用10

「商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるもので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない」同p.112

そして彼によれば、商品の価値は、使用価値とも関連付けられている。

引用11

「すべての労働は、一方において、・・・商品価値を形成する。すべての労働は、他方において、・・・使用価値を生産する」第二節p.87

商品価値と使用価値は、どちらも人間労働によって生産されるという仕方で、相互に関連付けられている、ということである。では、商品価値とは何か。

引用12

「商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表している。・・・この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国の異なるにしたがい、また文化時代の異なるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている」p.83

商品価値は人間労働によって作り出されるが、その人間労働は社会の中で規定される、つまり社会的な構成物である、とされている。ゆえに、商品価値そのものも社会的な構成物であると言わざるをえない。一方で、彼は次のようにも言う。

引用13

「物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介せられないばあいは、それである。例えば、空気、処女地、自然の草地、野生の樹木等々がそうである」第一節p.77

つまり、使用価値は労働によって産出されるとは限らない。一方で、商品価値は労働によって作り出されるのだから、使用価値と商品価値を労働を通して関連付けることはできない。しかし、これは引用11と矛盾しているように見える。また、

引用14

「労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表され、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表されているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける」第二節p.79

引用15

「すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている」p.80


これらの引用において彼は、使用価値を、何とかして商品価値の中に組み込もうと試みている。なぜそれが必要かというと、商品価値に箔をつけるためである。つまり、商品価値が単に社会的な構成物であるとした場合、それが空虚なものであることが見透かされてしまう。そのため、商品価値の中にわずかに使用価値を混ぜ込むことで、そこに実態があるかのように見せかけているのである。

実際には、商品価値は、使用価値とは無関係である。物の価値と物の値段との間には何の関係もない。ゆえに、商品の売買は偶然的なものにすぎない。そこに見せかけの合理性を与えることが、価値形態論の目的であった。

また、引用14は重要なことを述べている。たとえば、自然の草地から野イチゴを採取する場合、労働の有用性は使用価値の中に表されているとは言えない。その使用価値は、労働の有用性以上のものを含んでいるからである。ここにおいて、マルクス経済学は決定的に破綻する。農産物の使用価値は労働によって表現されない。したがって、それは商品とはなりえないのである。

参考図

以上の議論によって、価値形態論の虚構性が明らかになった。ゆえに、価値形態論に基づくマルクスの学説すべてが無意味であると言える。

これに限らず、西洋の思想や哲学は、一切合切すべてゴミである。このことは「空の論証」の中で詳しく説明している。興味のある方は是非一読されたい。

参考文献

エンゲルス編『資本論(一)』岩波書店、1969

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