税金と公共性

いったい公共性とは何だろうか。税金によって政府を運営することが公共性であるならば、税金以外の私財を公共のために使うことはできないのだろうか。

最近よく、金持ちは寄付をするべきだ、という話を聞くが、税金は公共のための寄付ではないのか。税金によって人々の暮らしを向上させられるのであれば、それは一種の寄付だと言えるだろう。だが、公共性を担うことができるのは、政府だけとは限らない。

現代社会の問題点は、公共性との接点が少なすぎることであろう。一般の市民は、税金を払うという行為を通してしか、公共性と関わることができない。それ以外の行為はすべて私の領域に属し、他人にそれを侵害する権利はない、ということが社会通念になっている。それは、公共性からかけ離れた生活だと言わざるを得ない。

本来、人間の生活はすべて公的なものでなければならない。自分の金だから何に使ってもよい、自分の場所だから何をしてもよい、自分の時間だから何をしてもよい、ということではなく、その金をどう使うか、その場所をどう使うか、その時間をどう使うか、ということが、そのまま公共性につながっているのである。

その公共性とは、簡単に言えば、人に迷惑をかけないということである。この社会に存在する資源は、常に限られたものである。その限られた資源を一部の人間が浪費するならば、他の人間が迷惑することになる。だから、他人が迷惑しないように資源を利用しなければならない。そして、金も一種の資源である。その金が税金として使われれば、社会のインフラを調えたり、市民の生活を支えたりできる。そのように使うこともできる金を、自分のためだけに使うならば、その分だけ他人の生活を圧迫することになりうる。

もちろん、こういう言い方をすると気分を害する人がいることも分かる。誰でも自分の財産は大事である。だが、それが公共のものであることを忘れてはいけない。たとえば、ソフトウェアを作る仕事をしている人がいたとしよう。彼は様々な企業からの依頼を受けて、ソフトウェアを作り、報酬を貰う。あるいは自分で開発したソフトウェアを企業に売り込んだり、個人に売って報酬を得る。それによって財産を蓄えた人がいたとしよう。

いったい彼は、自分一人で仕事をしているのだろうか。そうではない。彼が仕事をするためには、パソコンが必要である。ゆえに、パソコンを作る人が必要である。また、パソコンを動かすためには電力が必要である。ゆえに、発電所を動かす人が必要である。また、ソフトウェアを動かすためにはOSが必要であり、OSを作る人が必要である。そのOSを作っている人は、どうやって仕事をしているのか。仕事をするためには飯を食う必要がある。ゆえに飯を作る人がいて、ようやく人は仕事ができる。そのように、多くの人の仕事の結果として彼の仕事があり、その結果として報酬がある。そうして得た金が、本当に自分だけのものだと言えるのか。

こう言ったからといって、私は別に私有財産を否定したいわけではない。実際には、一人ひとりの市民が公共性を担うこともできるし、そうでなければ本当の公共性は生まれない、と言いたいだけである。公共の仕事をすべて国家に丸投げして、自分は税金を払う以外には何もしない。そういう人間がいくら集まっても、公共性は生まれないだろう。国家とは人間の集合であり、人間と別のものではない。日本国とは日本国民の集合であり、一人ひとりの国民が公共心を持たないならば、国家そのものも公共性を失うだろう。

このようにして、自由主義は国家そのものを破壊する。それは混沌しか生まない。

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