環境保護

1

 人間が地球環境を破壊している、とよく言われる。そして、自然環境を保護するべきだ、ということもよく言われる。しかし、そもそも人間には、自然を破壊する能力などない。我々はただ、我々自身の生活を破壊しているだけである。
 たとえば最近では、海洋におけるプラスチック汚染が問題となっている。海洋中にマイクロプラスチックが拡散することにより、地球環境に取り返しのつかないダメージが与えられる、と考える人もいる。

 では、そもそもプラスチックとは何か。プラスチックとは、石油から作られた繊維である。では、石油とは何か。石油とは、植物の死骸が変化したものである。したがって、プラスチックとは植物の一種である。ゆえに、自然環境中に放出されたプラスチックは、いずれ自然そのものの作用によって分解され、再利用されるだろう。
 それは、自然にとっては何ほどのことでもない。人間が自然に与えた傷は、あっという間にふさがれてしまう。その傷は、回復されるわけではない。そうではなく、過去にあったものとは全く別のものが、新しく生み出されるのである。自然の創造力には際限がない。

 一つの生物種が絶滅するということは、新しい生物が生み出されるための準備が整った、ということである。種の絶滅は、一つのニッチが解放されることを意味し、それは、そこに収まるべき新しい生物の進化を促すのである。ゆえに、絶滅そのものは何ら悲しむべきことではない。
 しかし、たとえばイネが絶滅したとしたら、人間の生活には大きな影響が出るだろう。それは、人間以外の生物にとっては取るに足りない出来事かもしれないが、人間にとっては死活問題となるだろう。
 たとえばプラスチックごみの拡散は、プラスチックを栄養源とする新しい生物の繁栄をもたらすかもしれない。その結果、地球の生態系は大きく変化することになり、その過程で人間は死滅してしまうかもしれない。しかし、人間が死のうが生きようが、自然そのものには何の影響もない。

 人間には、自然を破壊することはできない。むしろ自然の方にこそ、人間を破壊する能力がある。地球温暖化によって破壊されつつあるのは、地球環境ではなく、人間の生活である。我々は、我々自身の行為によって、我々自身の生活を破壊しているだけである。
 したがって環境保護ということは、人間のエゴイズムでなければならない。それは自然を守るのではなく、人間の生活を守るためのものでなければならない。
 プラスチックがいずれは分解されるのだとしても、それが、人間が生きている間に起きるかどうかは分からない。我々は、我々が生活する環境を、我々自身で整えなければならない。それが環境保護である。

 ここに示したような自然のはたらきを、西洋人は神と呼んでいるのかもしれない。だが、名前は何でもよい。名前が何であろうとも、現実に起きていることに変わりはない。

2

 最近、コンビニや八百屋などで買い物をするときに、レジ袋は有料だと言われることが多くなった。海洋プラスチックが問題とされるようになってから、ビニール袋の使用を規制する動きが出てきたようである。
 しかし、いち利用者としては腑に落ちない。今まで無料だったものが、なぜとつぜん有料になるのか。ビニール袋の原価が上がったわけでもないのに、どうして値段を変えるのか。
 というより疑問なのはむしろ、金さえ払えばビニール袋を使ってもよい、ということのほうである。プラスチックが海洋汚染の原因なのだとすれば、ビニール袋の使用を全面的に中止すればよいのであって、料金さえ出せばビニール袋を使える、という仕組みはどうもおかしい。レジ袋代三円を払うとき、いったい私は何に対してお金を払っているのか。

 おそらく私は、良心を買っているのだろう。たとえそれが良くないことであっても、お金さえ払えば許されるわけである。海洋汚染は良くないことだが、三円払えばそれも許される。それが資本主義ということなのだろう。
 市場経済では、人間の心も体も余すところなく売買の対象とされる。私はそれが良いことだとは思わない。

 もちろん、レジ袋の売り上げが環境保護のために使われているのだとすれば、言い訳くらいにはなるかもしれない。実際には、ただ企業の利益になっているだけだと思うが、もしもそれが環境保護の目的で使われているのだとすれば、もう一つ別の問題が出てくる。
 環境の保護は公共の利益に関する問題である。それを私企業が自らの責任で行うのであれば、私企業が公共性を担っていることになる。誰がそれを許したのか。私企業が公共性を担うことができるということを、誰が保証したのか。
 この点に関して十分な議論が行われていないということは、非常に問題のあることである。私企業はいつから公的なものになったのか。そもそも私企業自身は、自分が公的なものであることを認めているのか。

 公私の区別は責任の在り方の問題である。公共性を持った活動とは、この社会で生じるすべての出来事に責任を持つということである。少なくとも、潜在的に責任を負うということである。
 いまは問題がなくとも、いずれ問題が起きるかもしれず、そのときには自分で責任をとるということである。環境保護のために努力はしたが、結果は出なかった、という答えは認められない。必ず結果を出さねばならない。それが公共性ということである。
 地球環境が悪化した場合には自分の首が飛んでもよい、という覚悟のある経営者が、一人でもいるだろうか。しかしそれは、公共性を担う者としての、必要最低限の覚悟である。

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