新経済学

アダム・スミスは、各人が自己の利益を追求することにより、社会全体の利益が増進する、と考え、これを「見えざる手」と呼んだ。これがいま、資本主義の基本理念になっている。

スミスの考察はたしかに説得力があり、そういう場合もあるだろう、と思わされる。しかし、彼は常に見えざる手が働くことを証明したわけではなく、見えざる手が働く条件を明らかにしたわけでもない。見えざる手が働かない場合もあるだろうし、実際マルクスが見た英国社会においては、見えざる手は働いていなかった。

スミスは、各人が自己の利益のみを追い求めたときに、社会全体の利益が最も増進する、と述べたわけではない。また、各人が社会全体の利益を意図的に追求することで、社会全体の利益が減少する、と述べてもいない。私は近江商人の「三方よし」のモットーが好きだが、これは自分の利益だけでなく、顧客と社会の利益をも考慮する、という考え方である。こうした商売が社会の利益を損なうとは思えない。

スミスが述べたことは、各人が自己の利益のみを追求した場合でさえ、社会の利益は増進するということであって、それに加えて各人が他人の利益をも追求するならば、社会の利益はさらに増進する、と私は述べる。それは当然のことである。


彼はまた、「社会のためにと称して商売をしている徒輩が、社会のためにいい事をたくさんしたというような話は、いまだかつて聞いたことがない」(『国富論』)と述べているが、たとえそれが本当だとしても、私の主張を妨げるものではない。「社会のため」と称する人々とは、おそらく、自分の利益を度外視し、自己を犠牲にしたうえで、社会のために奉仕しようという人々であって、このような人々が社会の利益を増進させえないということは、一面の真理であろう。そして、彼が念頭に置いているのはキリスト教的な奉仕精神を持った人々だということも、容易に想像できる。つまり上述の部分は、自己を犠牲にして社会の利益を実現しようという考えは、間違いだという意味であろう。

しかし、彼は次の場合について考察し忘れている。それは、各人が自己の利益を追求するとともに、社会の利益をも追求する場合である。つまり、それらを両立させる可能性について、彼は考察していない。もしもそれが可能であれば、それが最も社会の利益を増進させるものであることは疑いえないことである。ゆえに、自己の利益と共に、社会の利益をも追求するように、各人は努力しなければならない。これが資本主義に代わる新しい経済学の基本理念である。


また、これはヨーロッパの思想家一般に言えることだが、彼らは自分自身を考察の対象に含めないという誤りを犯している。一体スミスは、社会全体の利益を増進させようと考えていたのだろうか、それとも、それを減少させようと考えていたのだろうか。

もちろん、増進させようと考えていたはずである。もしも彼が、彼以外の人間も、彼と同じように社会の福祉を増進させようとしていることを認めたならば、べつに見えざる手を仮定する必要はなかったはずである。彼はただ、各人が社会の利益を追求することで、社会の利益は増進する、と述べればよかった。どうしてそうしなかったのだろうか。

どうしてかというと、ヨーロッパ人は一般に、自分が善人であることを認めたがらない。自分は社会の利益を考えている、ということを表明しようとしない。そういうことを言うと、偽善者だと非難されるからである。そこで、自分は利己主義者のふりをしながら、それが結果として社会に貢献することになるのだ、という物語を作ろうとする。そうしないと安心できないのである。非常に奇妙な現象である。

スミスはただ、自分は善人である、と述べればよかった。そして、国民全員が善人であれば、社会の利益は増進するのだ、と言えばよかった。それを言わなかったために、後世まで様々な問題を残すことになった。ヨーロッパ人は賢いと考える者もいるようだが、私にはただの馬鹿にしか見えない。

この問題については「白川静と呪術」、「宇宙産業と世界平和」も参照のこと。

参考文献

『世界の名著31 アダム・スミス』中央公論社、1968(文中引用はp.388)

タイトルとURLをコピーしました