新型コロナ第三波と出口戦略

冬になって新型コロナの感染者が増えてきたので、またぞろ医者たちが騒ぎ出している。少し前まではQuality Of Lifeが大事だと言っていたのに、いまは人命第一に逆戻りである。感染予防のために経済活動を止めた場合、多くの人のQOLが低下することになると思うのだが、そんなことは歯牙にもかけない。人命を盾にした医学の暴走が止まらなくなっている。

むろん、感染を押さえ込むことが経済の再開につながる、という意見にも一理ある。ただし、これはワクチンの開発を前提とした意見である。全国民にワクチンが行き渡るまで、感染を防ぎながら我慢を続ける、という期限付きの忍耐を要求しているわけである。しかし、もしもワクチンが思ったほど効果をあげなかった場合、我々はいつまで忍耐を続ければよいのだろうか。

戦争の場合、籠城戦には必ず出口戦略が必要である。冬が来れば敵は引くはずだとか、援軍が到着すれば形勢は変わるとか、そういう解決策がなければ、いくら籠城を続けても、けっきょく負けるだけである。

では、我々の防衛戦にはどんな戦略があるのか。出口はワクチンしかない。ワクチンが上手く行かなければ、我々は延々と籠城を続けなければならない。これでは戦略の幅が狭すぎるのではないか。あるいは、春が来れば流行もおさまるだろう、という意見があるかもしれないが、その場合、来年の冬にまた同じことが起きるだけである。もっと根本的な解決を考えねばならない。

解決とは集団免疫以外にない。ワクチンはこれを人工的に作ろうとするものだが、ワクチンがなくても、自然に免疫が獲得されるのを待つという選択もある。その場合、我々は感染を拡大させながら、経済活動を続ける方法を考えなければならない。これは、ある程度の死者が出ることを前提として、その上で経済活動を続けるということである。ゆえに医療機関には、はじめからトリアージを前提として活動してもらうことになる。コロナ時代に必要なのは、命にこだわらない医療の姿である。


新型コロナ感染者のうち、重症者や死者はほとんどが高齢者である。これは自然なことで、おそらく、新型コロナは風邪ウイルスの一種である。しかし、誰も免疫を持っていないので、かかった人の中には重症化する人も出てくる。体力のある若者は比較的軽症で済むが、高齢者は重症化しやすい。

たとえば、普通の風邪ウイルスであれば、高齢者は免疫を持っているので、かかったとしても重症化はしにくい。これは裏を返せば、もしも普通の風邪ウイルスであっても、免疫を持っていなければ、高齢者は死ぬかもしれない、ということである。若者は風邪くらいでは死なないが、高齢者は風邪で死ぬ可能性がある。だから、新型コロナで死ぬのである。

集団免疫の獲得に舵を切る場合、老人の死者は、ある程度許容しなければならない。どうせコロナで死ななくても、別の病気で死んだはずだ、と思ってもらうしかない。これは老人たち自身よりも、むしろ医者の側にとって受け入れがたい考えであろう。というのも、この考えを許容した場合、医者の存在意義が否定されてしまうからである。

医者たちの振る舞いは、人命に絶対的な価値があるとした場合にのみ、正当化されるものである。彼らは人命という正義を振りかざして、いままでさんざん患者を痛めつけてきた。その錦の御旗を奪われるということは、彼らにとっては耐え難いことである。集団免疫という発想は、何よりも医者たちの間に拒絶反応を引き起こすだろう。それは彼らのプライドをずたずたに引き裂いてしまうのである。

いまの日本の状況を、インパール作戦のときの日本軍にたとえた人がいるが、そうすると、医者たちが無能な将校の役割を演じることになる。彼らは自らのプライドにこだわるあまり、日本を破滅に追いやることになるだろう。

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