マルクスについて

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マルクスの思想について、私の考えを述べておきたい。

まず、基本的なことから。私はすでに、アリストテレスとプラトンの哲学を批判している(「空の論証」)。そのため、マルクスの思想に関しても、根本的にはすでに批判が終わっていると考えることができる。なぜなら、マルクスの思想も、アリストテレス哲学の範囲内に収まるからである。

具体的に言えば、アリストテレスの用いた可能態と現実態という概念に対応するものが、マルクスの思想の中にも見出せるはずである。たとえば、彼が商品を分析するときに用いる、使用価値と交換価値という概念は、それぞれ可能態、現実態と同じ働きをしているはずである。

したがって、私がそれらの概念を批判するときに用いたのと同じ手法で、マルクスの理論を批判することができるはずである。私はマルクスにはあまり詳しくないので、はっきりとしたことは言えないが、純粋に理論的にはそのような批判が考えられる。

ここからは想像も混じるが、おそらく問題は、貨幣の実在という点にあると思う。マルクス主義は、貨幣の実在論である。この点に関して、マルクス主義と資本主義は全く同一である。

マルクス主義は、貨幣の実在を認めた上で、それを否定し、資本の蓄積を悪とみなす。一方で資本主義は、貨幣の実在を認めた上で、それを肯定し、資本の蓄積を善とみなす。この二つの思想は全く対照的に見えるが、本質は同じである。

そして、貨幣の実在ということは、詳しく考えれば、その貨幣を構成している要素である、使用価値と交換価値の実在と同じであることが分かる。そこで、使用価値と交換価値が空であることが示せれば、晴れて貨幣の実在を否定でき、マルクス主義を完全に否定することができるだろう。

2

2.1

では、貨幣が実在しないとはどういうことか。それを示す方法は様々あるが、たとえば、お金で買えないものについて考えてみよう。

お金で買えないものはあるだろうか。時々耳にする質問だが、はっきりした答えを持っている人は少ないかもしれない。愛はお金で買えないと言う人もいるだろう。しかし、そもそも愛というもの自体が、存在するのかどうかあやふやなものなのだから、これでは答えになっていない。

2.2

たとえば、スピカという星がある。おとめ座の一番星で、青白い光を放つ、冷たい感じのする星である。あれをお金で買えるだろうか。

誰でもわかる通り、星はさすがに、お金では買えない。では、どうしてスピカはお金で買えないのだろうか。

それが遠くにあるものだから、買えないのだろうか。しかし現代では、日本にいながら、アメリカの商店から物を買うこともできる。ゆえに、距離が離れているからといって、お金で買えないことにはならない。では、どうしてスピカはお金で買えないのか。

答えは、誰の所有物でもないからである。

売買ということは、売り手と買い手の二人の人間がいることで成り立つ。したがって、あるものを売ってくれる人がいない場合、それをお金で買うことはできない。スピカは誰の所有物でもないから、それを売ってくれる人がいない。だから、お金では買えないのである。

さて、これが一つ目の答えである。

そして、答えはもう一つある。

2.3

今までのところで分かったのは、誰の所有物でもないものは、お金では買えない、ということである。では、お金で買えるものとは、どのようなものだろうか。

誰の所有物でもないものは、お金では買えない、ということは、お金で買えるものは、誰かの所有物でなければならない、ということである。我々は今、世界全体を二つに分けて考えている。全ての人間の所有物全体の集合と、誰の所有物でもないもの全体の集合である。このうち、お金で買えるものは、全ての人間の所有物の集合に属しているわけである。

しかし実は、この集合の中に、一種類だけ、本当はお金では買えないものが混じっているのである。

それはなんだろうか。

それは一体、誰の所有物だろうか。

答えは、自分の所有物である。

先ほどと同じで、二人の人間がいないと、売買は成り立たない。つまり、自分の持ち物を、自分のお金で買うことはできないのである。あたりまえである。

まとめると、お金で買えないものは二つある。一つは、誰の所有物でもないもの。もう一つは、自分の所有物である。これが答えであった。

2.4

さて、話はまだ終わりではない。結論が出るまで、もう少しお付き合い願いたい。

次の問題は、あなたにとって価値のあるものは、あなたが自由に使えるものか、それとも自由に使えないものか、どちらであるか、ということである。

たとえば、あなたが砂漠で遭難して、三日間何も食べていなかったとしよう。その時あなたの目の前に、自由に食べられるリンゴと、絶対に食べてはいけない黒毛和牛のステーキがあったとしよう。あなたにとって価値があるのはどちらだろうか。

考えるまでもなく、あなたにとって価値があるのは、あなたが自由に使えるものである。潜在的な価値がどれほどあっても、自分でそれを使えないのであれば、何の意味もない。

では、あなたが自由に使えるものは、次のうちどちらだろうか。それは、あなたの所有物だろうか、それとも他人の所有物だろうか。

もちろん、あなたの所有物である。

さて、以上の議論をまとめてみよう。あなたにとって価値があるものは、あなたが自由に使えるものである。そして、あなたが自由に使えるものは、あなたの所有物である。さらに、あなたの所有物は、あなたのお金では買えない、ということが、先ほどの議論で明らかにされていたのだった。そうすると結局、あなたにとって価値があるものはすべて、お金では買えないものである、ということになる。それならば、お金というものには、一体何の価値があるのか。

お金には、何の価値もないのである。つまり、お金というものが実在し、そこに何らかの価値が存在している、という考えが、そもそも間違いだったのである。お金というものは、ただの取り決めにすぎない。社会生活を円滑に進めるためのルールである。それ以上の意味はない。

さて、以上の議論で、貨幣の非実在ということがどういうことなのか、多少は分かってもらえたのではないかと思う。

3

本当はこれ以上続けなくてもよいのかもしれないが、もう少し言っておきたいことがある。

それは、資本主義の起源についてである。資本主義はルネサンスのイタリアで生じたという話もあるし、イギリスにおける「囲い込み」の過程で発達したという意見もある。

しかし、おそらく、資本主義と市場経済の起源は中国にあって、とくにモンゴル帝国が不換紙幣を発行した時に、それは完成されたのだと思う。それが地中海世界に影響を与え、西洋的な資本主義が発達したのだろう。

つまり、市場経済は様々な形でありうる、ということである。たとえば、私有財産制度がなければ市場経済は成り立たない、と考える者もいると思うが、それは誤りである。なぜなら、そんなものは中国には存在しなかったからである。それでも市場経済が機能していたということは、現在の経済学の市場に対する考え方が、根本的に間違っているということを意味している。

ヨーロッパの学者たちは、市場経済に対して、不必要な条件を付け過ぎているのではないだろうか。我々は、市場経済のより一般的な条件を探し出さねばならない。その上で、新しい資本主義の在り方を考えてゆくべきであろう。

とくに現代の資本主義は、土地の囲い込みを前提にしているところがあるので、遊牧民など、農耕以外の文化を持つ人々には向いていないと思われる。もっと融通の利く資本主義が必要である。

また、以上の議論が正しいならば、中国人がマルクスを信じる必要は全くない。マルクスよりも孔子の方が偉いし、レーニンよりも孟子の方が偉い。当然のことである。

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