正しい死に方

今回のコロナ騒動で明らかになったことは、現代人がいかに死を恐れているか、ということであろう。人間は必ず死ぬのだから、その時が来たら死ぬしかない。それが道理なのだが、その道理が分からない人間が大半であるらしい。

過激な言い方をすれば、新型コロナウイルスは高齢化の問題を解決してくれるだろう。高齢化とは、老人が生きすぎるという問題である。これだけ高齢化が進んだにもかかわらず、退職したら仕事をせず、年金生活ができて当然だ、と考えている者が非常に多い。

だが、それは社会の迷惑である。いまの社会では、高齢者にも働いてもらわないと国が持たない。老人だから働かずに楽に暮らしてよい、という時代ではもはやない。昔は老人の数が少なかったために、彼らが尊重されることもあったが、ここまで高齢者が増えてしまうと、特別な待遇を期待することはできない。老人も働くべきであり、働けなくなったら死ぬべきである。


人は必ず死ぬ。ゆえに、死とどう向き合うかということは、人生の根本問題である。現代人はこれをどのように解決したかといえば、見て見ぬふりをするだけである。みな自分だけは死なない、というふりをして生きている。あまつさえ死を克服できるとか、医療の進歩によって人は死ななくなる、などと言い出す人間まで現れる始末である。それはただの現実逃避にすぎない。

人は死ぬ。では、どのように死ねばよいのか。我々はこれを先人に学ばねばならない。仏陀は八十まで生きたと言われている。彼の死に方は実に見事であった。仏陀は死の直前まで布教の旅を続けていた。自分の足でインド中を歩き回り、町を訪ねては説法をし、正しい法を広めようとしていた。

あるとき釈迦は、鍛冶屋のチュンダに招かれて、食事のもてなしを受けた。そのとき食べた豚肉にあたって食中毒を起こし、そのまま死んでしまった。食事の翌朝は、彼はまだ普通に歩いていた。それが急に腹痛を訴え、床を作らせ横になり、様々な遺言を弟子に残して、そのまま逝ってしまった。

そこには特別な感情は何もなかった。あたかもそれが、何気ない日常の一コマであるかのように、慌てず騒がず冷静に、言い残すべきことを言い残し、万事問題がないことを確認して、安らかに死んでいった。彼にとっては、死すらも生活の一部だったのである。これほど見事な死に方は他にない。まるでドアを開けて出かけるかのように、自然に逝ってしまった。


これが人間の死に方である。それは、日常の中に死を織り込んでおくということである。人間は必ず死ぬのだから、死ぬときに慌てるのは愚かなことである。死ぬと分かっているのであれば、死を前提として生きねばならない。それが死を克服するということであり、死を支配するということである。それが智慧であり、死から逃げようとするのは愚か者である。

だが、人間はあまりに弱く、死と向き合うことなど普通の人間にはできない、と弱音を吐く者もいるだろう。彼のような人間のために、阿弥陀様がいらっしゃることを知らないのだろうか。死の直前に念仏を唱えれば、阿弥陀様がお迎えに来てくださる。だから安心して死ねばよい。

タイトルとURLをコピーしました