白川静と呪術

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白川静の文字学は、非常に整っていて面白い。文字同士の関係が見事に整理されており、漢字の構造をほぼ明らかにしていると言える。

ただ、彼の漢字解釈は呪術に基づく部分が多く、その点が分かりにくい。たとえば、口(さい)の字を呪告を入れた箱だとする解釈が、彼の漢字学の基礎をなしている。だが、どうしてそのような呪術が、文字の発生において重要な役割を果たしていたと言えるのか、現代の我々には想像がしにくい。この点を解釈し直すことで、白川静の漢字学を読み替えることができるのではないか。つまり、彼が明らかにした漢字同士の系統関係をそのままに、解釈だけを変えるということである。

口の字は祝詞を入れた箱というよりは、そこから派生して、言葉そのものを意味しているのではないか。それは盟約や契約の言葉でもあり、天意を告げる言葉でもあり、一般に言語や言語によって示される意志を口の字で表現したのではないか。漢字は本来具象的なものだが、具象によってのみ解釈すると、かえって分かりにくくなってしまう。一部の字は、はじめから抽象的な意味を持つものとして解釈してもよいのではないか。

また、工の字も呪具の一種だと言われているが、どんな道具かは明らかでないという。口が言葉に表された意志だとすれば、工は言葉に表されない意志を示すのではないか。それで口と工が対になって用いられることがある、とも考えられる。

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白川静は、フレイザーの仕事から大きな影響を受けているようである。ここで一度、フレイザーの思想を検討してみたい。

彼によれば、王制は呪術から発展したものである。雨乞いや豊作祈願など、共同体全体の利益を左右する儀式を執り行う呪術師は、共同体内部で大きな権力を持つようになる。それが王の起源だという。

この仮説を支える最も重要な部分は、古代の人々は実際に呪術を信じており、しかも呪術師はそれが欺瞞に過ぎないことに気付いていた、という点である(『金枝篇』第一部第三章4)。ゆえに呪術師は、呪術の結果を自分の都合の良いように調整することで、人々を動かし、支配することができたという。

この仮説の問題点は、なぜ民衆は呪術を信じ、呪術師は呪術を信じていなかったのか、ということを説明できないことである。呪術師が王となり民衆を支配するためには、民衆を自分の思い通りに動かす必要がある。そのために呪術を用いたのだとすれば、呪術師自身は呪術を信じていなかったのでなければならない。というのも、もしも呪術師自身が呪術を信じていたとすれば、彼は自分の呪術の結果に振り回されることになり、人を支配することなどできないからである。

では、呪術師が呪術を信じていなかったのだとすれば、彼は何を信じていたのか。彼は近代科学のような合理的な自然観を信じていたのか。それともキリスト教のような宗教的な世界観を信じていたのか。

そのいずれにしても、呪術師は、その後に現れるはずの文明的な世界観を先取りしていたことになる。しかしながらフレイザーの仮説は、人類社会が原初的な状態から出発して、文明的な社会にまで発展する過程を説明することを目的としている。にもかかわらず、原始的な社会の中にすでに文明的な信念を持った人物が存在していたとするならば、彼は論点先取の誤りを犯していることになる。つまり、自分が証明すべき結論を、前提の中に含めてしまっているのである。したがって、フレイザーの仮説は誤りである。

もちろん、実際に彼の言うような経緯で呪術師が王になることもあったのかもしれない。しかしそれはあくまでも特殊的な出来事であって、王制の一般的な起源を説明したことにはならない。したがって、今後彼の主張を擁護しようとする者は、なぜ呪術師は呪術を信じていなかったのか、そして実際には何を信じていたのか、ということを説明しなければならない。

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呪術による原始社会の分析は、その発展段階として宗教が現れることを予想したものである。つまりフレイザーの仕事は、人間が原始的な呪術を信じる段階から出発して、いかにして本当の宗教であるキリスト教を発見するに至ったか、その道筋を解明しようという一種の神学的な研究であると言える。したがって、彼が原始社会における呪術の価値を高く評価したことも、その後に現れるキリスト教の地位を高めるための準備だったと考えられる。彼の叙述には、科学の価値を低く評価し、宗教の価値をより高く評価しようとする傾向がある。おそらくこれは、ヨーロッパにおける思想の一般的な傾向であろう。

王制の起源に関して私の意見を述べるならば、実際上の必要からであろう。共同体の成員が協力して一つの仕事に当たる場合、指導者を一人選んだ方が効率がよい。たとえば戦争の場合にこれは顕著である。それぞれの兵隊が自分の判断でバラバラに行動するよりは、一人の将の指揮にしたがって組織的に動く軍隊の方が、戦場においては有利である。つまり共同体の利益、ひいては個々の成員の利益のために指導者が必要とされ、それが王になったと考えられる。この場合、王が呪術的な儀礼を執り行ったかどうかは副次的な問題に過ぎない。

この単純な仮説と、フレイザーの複雑な仮説の違いはどこにあるだろうか。最も大きな違いは、私の仮説の場合、指導者の私欲は問題にされていないが、フレイザーの仮説の場合、指導者の私欲が王制の原因とされていることである。後者においては、呪術師が私欲を満たすために民衆を支配する王の座に就いた、という仮定が論理を支えている。

これはゲーム理論と全く同じ論理展開である。人間は己の欲を満たすことしか考えられない。その前提から出発して、文明的な社会の成立を説明することが研究の目的となっている。いったい彼らが何をしようとしているのかというと、人類が原罪を負っていることを証明しようとしているのである。まず原罪の存在を仮定し、そこから今の我々の社会が発生する過程を説明することで、それが存在する証拠を示したことになる。つまり、これらは一種の神学である。キリスト教神学の一変種にすぎない。

原罪など存在しない。人間は自分の利益だけでなく、他人の利益も考えて行動することができる。それが知性である。キリスト教は本質的に野蛮な宗教であり、人間を無知の中に閉じ込めることを目的とした迷信にすぎない。ゆえに、キリスト教を擁護するいかなる試みも、理性の名の下に退けられるべきである。

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