親鸞について

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 親鸞の思想的な先駆者は、法然ではなく、明恵だと思われます。なぜならば、明恵による念仏宗批判の最も重要な部分を、親鸞はそのまま受け入れているからです。そして、その上に、全く新しい念仏宗の基礎を築きました。浄土真宗は、他のいかなる浄土宗とも異なる、真実の宗教です。

 明恵の批判は原理的なものでした。法然は選択集において、菩提心よりも念仏の方が重要である、と主張していました。これに対して明恵は、菩提心こそが悟りの唯一の原因であり、それを捨ててしまう念仏宗は、もはや仏教とは言えない、という厳しい批判を行いました。
 親鸞は明らかに、この批判の正しさを認めています。その上で、菩提心の生じる原因を問題にしています。そもそも、全ての人間に菩提心があるわけではありません。もしもそうであるならば、仏の教えを聞かずに、全ての人が悟りを開いてしまうことになるでしょう。ゆえに、どうすれば菩提心を生じさせることができるか、ということが、本当の問題であると言えます。
 つまり、親鸞は、明恵の提起した問題を、さらに深く掘り下げようとしたのです。明恵は、菩提心こそが仏教の本質であると喝破しました。親鸞は、そこから一歩進んで、菩提心の原因を追究しようとしました。どうすれば人は菩提心を持ちうるのか、ということ、それは、どうすれば、仏の教えを信じていない人に、信仰を持たせることができるのか、という問題です。

 親鸞が追求したのは、個人的な悟り、自分一人の悟りではなく、どのようにすれば他者を悟りに導くことができるのか、という、大乗仏教の本質に関わる問題でした。それは、仏の教えを信じていない人々を、いかにして仏の教えに導くか、という問題です。つまり、浄土真宗はそもそも、非仏教徒を対象にした仏教なのです。
 ここに、親鸞と明恵の立場の違いがあります。明恵の仏教は、ある意味で、仏教徒のための仏教でした。菩提心を前提とした仏教でした。しかし、親鸞の仏教は、仏教の外にいる人のための仏教だと言えます。あらゆる衆生のための仏教です。それが、真宗の真宗たる所以です。

 そして、彼の理論の要となるのが、阿弥陀如来の不可思議力への、絶対的な信仰です。しかしながら、親鸞の他力とは、一種の方便に過ぎないと考えることもできます。本当の問題は、他力を信じることができるかどうか、ということであって、阿弥陀の力を信じるかどうか、ということではありません。それは、つまるところ、他者の言葉に耳を傾けることができるかどうか、仏の言葉に耳を傾けることができるかどうか、ということです。ここでは、仏の教えへの信仰に入ることができるかどうか、ということが問われているわけです。
 もちろんこれは、皮相的な見方に過ぎません。他力ということの意味は、もっと深いものです。それを理解するためには、浄土真宗の教義に、もう少し分け入ってみなければなりません。
 また、ここまでの議論から既に明らかだと思いますが、親鸞は、世界史的な重要性を持つ人物です。龍樹や世親と比較しても、遜色がない人物だと言えます。

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 さて、教行信証の証巻に引用されている、十地経の話から始めましょう。親鸞はそこで、菩薩の十地のうちの第八地、不動地から引用を行っています。このことは、彼が、念仏が成就した状態を、第八地の菩薩に譬えていることを示しています。
 ここで、浄土宗の基本的な教義を説明しなければなりません。念仏を唱える修行者には、大きく分けて二つの段階があります。一つ目が、往相の回向の段階。二つ目が、還相の回向の段階です。念仏行者は、念仏を唱えることで、浄土へ往生することができます。ここまでが、往相の回向です。そして、浄土へ行った後で、さらに現世へ戻ってくるという段階があります。これを還相の回向と言います。彼らが何のために戻ってくるのかと言えば、衆生を救うためです。この還相の回向までを含めて、ようやく浄土宗の教義は完結します。ここに、浄土宗における、衆生済度の思想を読み取ることができるでしょう。

 さて、親鸞が第八地と対比したのは、還相の回向を始めた菩薩の姿でした。十地経と対比させるならば、往相の回向は、第一地から第六地までの菩薩の姿に、還相の回向は、第八地から第十地までの菩薩の姿に、それぞれ対応していると考えられます。
 十地経は、菩薩が修めるべき修業の階梯について論じたお経です。第一地から第六地までは、それぞれ六波羅蜜に対応させられています。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、の六つの項目を修めることを言います。最後の智慧とは、般若波羅蜜のことであり、これは悟りを意味しています。したがって、第六地を終えた菩薩は、般若波羅蜜を習得し終えており、すでに悟りを開いていると言えます。ゆえに、十地経の第七地以降の部分には、悟りを開いた後の、菩薩のあるべき姿が記述されていると考えられます。
 浄土に往生した念仏行者は、すでに悟りを開いています。ゆえに、還相の回向にある行者も、悟りを開いているはずです。だからこそ親鸞は、証巻において、第八地の菩薩の姿を引用したわけです。

 ここで問題にしなければならないのは、第七地、遠行地の存在です。この境涯は昔から、七地沈空の難と呼ばれ、特別視されてきました。この段階には、一種独特な意味があります。菩薩は、第一地から第六地まで、少しずつ修業を積み重ね、第六地を終えたところで、ついに悟りを開きます。そのようにして、自分の悟りを成就した後には、その悟りを衆生に振り向け、衆生済度のはたらきを始めなければなりません。しかし、それが始まるのは、第八地の不動地からなのです。第七地においては、菩薩は何も行いません。
 これは、お釈迦様の成道と比較すると分かりやすいと思います。お釈迦様は、六年間苦行を続けた後で、それを止め、菩提樹のもとで瞑想を始めます。そして、七日七晩の瞑想ののちに、ついに悟りを開きます。それから、お釈迦様は何をしたでしょうか。やはり、何もしませんでした。彼は悟りの深い味わいを楽しみながら、しばらくの時を過ごしていました。そのとき彼の脳裏には、教えを広めることへの消極的な考えが生まれていました。このような意味深い教えは、知恵の劣った人々には理解できない。だから、教えを広めようとしても無意味である、自分一人でこれを楽しむのが最もよい、という考えです。
 そこに、梵天という神様が現われます。彼が言うには、世の中には知恵の優れた人々もいる。彼らがあなたの教えを聞けば、たちどころにそれを理解するだろう。そのような人々にとって、あなたの教えを聞くことができないということは、あまりにも不幸なことである。どうか彼らのために、教えを説いてほしい、ということでした。お釈迦様は梵天の熱心なお願いに説得され、ようやく説法を始めることになります。

 さて、このように、悟りを開いてから、梵天の勧請を受けるまでのお釈迦様の状態に対応するのが、第七地であると考えられます。これを裏付けるように、第八地の初めには、他方の世界から如来がやってきて、梵天と同じような説教をします。それによって、菩薩はようやく覚醒し、第八地で表現されるような、利他のはたらきを始めることになります。この部分には、一種の文学的なカタルシスがあり、非常に味わい深いものになっています。ぜひ自分で読んでみて欲しいと思います。
 回向とは、向きを変えるということです。十地経の菩薩は、それまで自己の向上のために修行を続けていたのが、悟りを開いた後には、もはや目標がなくなります。そこで、彼は向きを変えねばならなくなります。自己の向上のためではなく、衆生済度へと目標を変え、自分自身の進む方向を変えなければなりません。それが回向です。
 そして、回向を行うためには、他力が必要になります。それは、お釈迦様でさえ、例外ではありません。お釈迦様にも、梵天様という他力が必要でした。十地経の菩薩にも、他方世界の如来という他力が必要でした。そして、念仏行者に必要なのが、阿弥陀如来という他力なのです。

 たとえば、ボールを投げたときに、宙を飛んでいるボールが突然向きを変えて、別の方向に飛び始める、ということはありえません。ボールが向きを変えるためには、壁にぶつかったり、バットにぶつかったりして、何か他のものから力を加えられることが必要です。そのように、他力がなければ、向きを変えることはできないのです。仏教における他力の意味も、このようなものだと考えられます。
 ゆえに、阿弥陀如来の他力は、念仏行者を救うためにあるのではない、と言うことができます。これは、十地経や、梵天勧請と比較すれば明らかです。十地経の場合、他方世界の如来が現われるのは、第八地においてです。しかし、菩薩はすでに、第六地において悟りを開いています。また、お釈迦様の場合も、梵天が現われるのは、菩提樹の下で悟りを開いた後のことです。つまり、他力が必要となるのは、常に、悟りを開いた後なのです。
 したがって、これらと比較するならば、阿弥陀如来の他力が必要とされるのは、念仏行者自身の悟りのためではないと言えます。そうではなく、彼が他者を救うことができるために、それが必要なのです。自分一人が悟りを開くだけならば、自力でできます。しかし、利他のはたらきを行うためには、どうしても他力が必要になります。阿弥陀の力は、そのためにあるのです。

 阿弥陀様は、あなたを救うためにいるのではなく、あなたに他者を救わせるためにいるのです。それが、他力の本質です。ここにあるのは、私と阿弥陀様の、二者の関係ではありません。そうではなく、私と他者との関係を媒介するものとして、阿弥陀様が存在します。つまり、三者の関係が基本となっています。この点が、いままで見過ごされてきたのではないかと思います。
 二者の関係は、それ以上発展の仕様がありません。それは閉じた関係です。しかし、三者以上の関係ならば、どこまでも広がってゆけます。浄土宗には、そのような開けた性格があり、それが、この宗教を独特なものにしています。
 また、ここにこそ、キリスト教との違いがあります。浄土真宗とキリスト教は、これまで良く比較されてきました。しかし、その類似は表面的なものに留まります。キリスト教が、神と私との二者の関係に終始するのに対して、浄土宗は、三者の関係をその中に含んでいます。ゆえに、この二つの宗教は、本質的に異なるものであると考えられます。
 以上のような構造が、浄土真宗にはあると思われます。そこには、研究の余地がまだ沢山残されています。

3

 親鸞は、念仏宗徒は念仏のみに専念し、余計な計らいをしてはならない、と言っています。それは、悟りを開くための修業をしたり、仏教の教義を学ぼうとしてはならない、ということです。そのように、ただ念仏のみに専念することが、真宗の特徴です。
 このような親鸞の態度の背景にあるのは、煩悩具足の凡夫でなければ、往生はできない、という考えだと思われます。それはつまり、もしも菩提心を持っていたならば、往生はできない、ということです。

 阿弥陀如来の誓願の第十一は、必至滅度の願と呼ばれています。浄土に往生した者は、必ず正定聚に住し、滅度に至るという誓願です。正定聚とは、悟りを開くことが決まっている状態のことです。この位に一度到達したならば、そこから退転することはありません。つまり、浄土に往生した者は、その瞬間に、悟りが決まった状態に入ることができる、ということです。
 ここで、もしも、菩提心が悟りの原因なのだとすれば、正定聚とは、その人の心に菩提心が生まれ、それが決して消えない状態である、と言えます。したがって、親鸞が言いたかったことは、もしも正定聚に入ってしまったならば、往生はできない、ということだったと考えられます。

 どういうことかと言えば、いちど正定聚に入ってしまった人は、そこから出ることができません。つまり、いちど正定聚に入ってしまった人が、もう一度そこに入り直すことはできない、ということです。よって、もしも、第十一願の意味していることが、浄土に往生した者を必ず正定聚に入れる、ということだとするならば、すでに正定聚に入っている人は、決して浄土に往生できない、ということになります。その場合、その人にとって二度目の正定聚になってしまい、矛盾が生じるからです。ゆえに、もしも、その人が往生してしまったならば、阿弥陀の誓願は満たされなくなってしまいます。したがって、浄土に往生するためには、正定聚に入ってはならず、菩提心を持ってはならない、つまり、煩悩具足の凡夫でなければならない、ということになります。
 もちろん、これは私の仮説であって、かなり強引な解釈かもしれません。しかし、このように考えると、親鸞の言おうとしたことが、よく分かるような気がします。
 阿弥陀様は、衆生に菩提心を与えます。そのため、自分から菩提心を起こそうとしてはいけない、ということです。すでに菩提心を持っていたならば、阿弥陀様から菩提心を受け取ることができなくなってしまうからです。

 さて、このように考えてくると、浄土の重要な構造が浮かび上がってきます。まず、浄土に往生する人は、菩提心を持っていません。浄土に往生することによって、阿弥陀様から菩提心を与えられ、悟りに到達します。そこで、今度は還相の回向に移ることになります。還相の回向とは、利他のはたらきです。では、利他とは何でしょうか。
 利他とは、他者を救うことです。そして、あらゆる衆生にとって、真実の救いとは、悟り以外にはありません。したがって、利他の行いとは、第一義的には、他者を悟りへと導くことです。それは、その人を仏の教えへと導くことであり、つまり、その人の心に菩提心を生じさせるということです。ゆえに、還相の回向を始めた菩薩が行うべきことは、衆生に菩提心を与える、ということに他なりません。そして、自分自身悟りを開いた菩薩には、それが可能なのです。
 ここで、二人目の念仏行者がいたとしましょう。この念仏行者が浄土にやってきて、同じように菩提心を受け取ります。では、彼は、いったい誰から菩提心を与えられたのでしょうか。

 それはおそらく、還相の回向にある、一人目の念仏行者からだと考えられます。つまり、いちど浄土に往生した念仏行者は、阿弥陀如来と全く同じはたらきを為しうるのです。そして、この二人目の念仏行者も、一人目と同じように、還相の回向を開始します。
 このようにして、浄土においては、ほとんど連鎖的に悟りが実現されてゆきます。そしてまた、一人の阿弥陀如来には、無数の衆生を救う力があることを思えば、一つの悟りが、無数の悟りを生み、その無数の悟りの一つ一つが、さらにまた無数の悟りを生んでゆく、という構造が現われます。そして、一つの悟りは、一人の仏に対応し、一人の仏は、一つの仏国土に対応することを考えるならば、一つの浄土が、無数の浄土を生み、その無数の浄土の一つ一つが、さらにまた無数の浄土を生んでゆく、という構造が見えてきます。このように、無限に増殖してゆく浄土の系列全体が、極楽浄土と呼ばれているのです。ここに現れるイメージは、華厳経における蓮華蔵世界海と比較されうるものでしょう。
 以上が、私が知る浄土真宗の性質です。この他にも、まだまだ意義深く、興味深い発見があると思います。気になった人は、ぜひ研究してみてください

4

 親鸞聖人はかつて歌われました。

  五濁増のしるしには
  この世の道俗ことごとく
  外儀は仏教のすがたにて
  内心外道を帰敬せり

  外道梵士尼乾志に
  こころはかはらぬものとして
  如来の法衣をつねにきて
  一切鬼神をあがむめり

(終)

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