多民族国家

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日本人はかつて、満洲国という多民族国家を作った。終わり方は唐突であったが、それ以前に、その運営の仕方に問題があったように思う。一方で、現在の日本はまさに、満洲国のような多民族国家になりつつある。そこで、今後の日本を考える上で、過去の失敗から学ぶということは非常に重要である。

現在の角界におけるモンゴル人力士の扱いを見る限り、日本人は、満洲国のころから全く変わっていないようである。満洲国のときも、モンゴル人はよく働き、国家のために尽くしてくれた。しかし、彼らはそこで二級市民のような扱いしか受けなかった。その不満が、終戦間際になって、モンゴル人士官の反乱という形で噴出することになる。この件に関して言えば、モンゴル人に落ち度はない。日本人の横暴が招いた結果であり、自業自得である。

我々は彼らを、自分たちに都合のいいように使い、彼らの意志を汲むことをしなかったのではないか。彼らは何のためにこの国に来て、働いているのか。満洲国のモンゴル人は、民族の独立のために働いた。では、いま日本で働いている人々は、何のためにそうしているのか。我々は、彼らを利用することばかり考えてはいないか。そういったことを改めて反省してみるべきである。

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移民問題は一国だけの問題ではない。

今はまだ、日本とASEAN諸国との間には経済的な格差がある。それが、日本への移民の流入を促していると考えられる。しかし、その差は急速に縮まりつつある。つまり、現在における移民問題と、近い将来における移民問題は、全く別の形をとることが予想されるのである。私自身は、地域間の経済格差が小さくなり、ある程度の平衡状態に達することが望ましいと考える。

移民問題とは、日本を含む地域社会全体がどのように発展するべきか、という国際的な政治問題である。このような問題について考える場合、我々は、アジアという地域の将来の姿を思い描かねばならない。

実際問題としては、言語の壁はやはり大きく、人の移動は、モノの移動と同じようにはいかないだろう。ゆえに、地域共同体を作るとしても、各々の国家あるいは地域において、政治的な独立は保証されるべきである。一方で、経済的な一体化は、すでにかなりの程度達成されている。この点で協力態勢が築けることに疑いはない。一番の問題は国防であろう。国防の共同化が可能かどうか、それがどの程度まで達成されうるか、ということが本当の問題だと思う。

移民の問題は、地域統合という問題の一つの側面にすぎない。移民の量が、国民の規模に対して無視できない大きさになりつつあるということは、とりもなおさず、地域統合の可能性が高まっているということである。そのとき真に問題となるのは、軍事力のあり方であろう。

国防の共同化は、地域外の脅威に対応するためというよりも、むしろ、地域内の安定のために必要とされる。したがって、この枠組みへは、中国と日本は必ず参加しなければならない。さらに、ロシアとインドの参加が望ましい。

昔のアジアであれば、たとえばモンゴル帝国の場合のように、武力の行使によって統一が実現されたはずである。しかし現代においては、兵器の破壊力はあまりにも強くなりすぎている。ゆえに、武力による地域統合の可能性はありえない。むしろ、軍事力の増強を抑止する何らかの枠組みを作ることで、統合が可能になるのではないだろうか。国防の共同化は、過度の軍拡競争を抑止する最もよい手段になりうると思う。

地域外への対処としては、核ミサイルがいくらかあれば十分だろう。しかし、地域内の問題を解決するために核を使うわけにはいかない。具体的に何をどうすべきかは、まだ分からない。

また、これらの問題と共に、地域社会に通底する倫理的な基盤、つまり道徳を作るという課題もある。それは法律というほど堅苦しいものではなく、精神的な連帯感を呼び起こすようなものがよい。文学と言ってもいいかもしれない。地域の統合のためには、人々の連帯感を表現できるような、何らかの象徴が必要になるだろう。

ここまでくると、まるで実現不可能な絵空事のように感じられるかもしれないが、実際には、地域統合の必要性はかなりひっ迫しているように思われる。近い将来に、何らかの解決が求められるはずである。それが破局的なものとならないように、今のうちから道筋をつけておくべきであろう。

私は、この統合体の名称として「東亜連盟」を提案する。また、この問題に対する活発な議論を望む。

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