日本の批評

1

東浩紀は日本的すぎる。彼の哲学は西洋の正統から逸脱している。彼の批評の対象からも、それは読み取れる。

しかし、どうも本人はそのことに気付いていないようである。自身の思想の異常さ、西洋的な立場から見たときの異常さに無自覚であるらしい。彼はラカンや何かについてもっともらしく語るが、思考はすぐにそこからすり抜けてしまう。西洋的な思考法が、彼の中に染み付いていないように見える。たぶん彼は、そのことにもう少し自覚的になったほうがいい。それは長所だと思う。

郵便的という概念は全く哲学的ではない。それは、現実の世界にはみ出してしまっている。哲学というものは、言葉の世界に閉じこもるためのものである。現実を捨てて、プラトン的なイデアの世界に逃げ込むための手段に過ぎない。彼は全く無自覚にそれを壊そうとしている。どう考えても、彼は哲学者ではない。

彼は自分自身に無自覚であるというよりは、哲学が何であるか、ということに気付いていないのかもしれない。ヨーロッパの思想や哲学は、彼が考えるほど高尚なものではない。

2

批評の歴史は古い。私が思うに、日本において批評の文化が花開いたのは、江戸時代である。そのころは朱子学が盛んで、論語などのテキストへの注釈が、様々な学者によって行われた。おそらくそれが、文芸批評の原点であろう。

批評の対象が同時代の創作物であるか、古典であるかという違いはあるものの、活動の中身はあまり変わっていないと思う。テキストの読み方を深めてゆくことによって、新しい見方や思想を発掘する、という批評の本質は現代にも受け継がれている。

東の批評はわりとべたというか、作品から道徳的な意義を読み取ろうとするところがあって、どことなく堅苦しい。江戸時代で言えば、伊藤仁斎のような真面目な読み手である。

一方で、宇野常寛は作品を斜めから読む。メタな視線から身もふたもない読解をするので、ある意味では不真面目だが、それが逆に新鮮でもある。荻生徂徠のような癖のある読み手である。

最近はあまりサブカル批評なども流行らなくなってきたので、昔を懐かしむ気持ちから、ついこんなことを書いてしまった。

3

私は、未来は子どもたちに託せばよい、という議論が好きではない。子どもの可能性に期待しているのだろうが、人任せにしないで自分でなんとかしろ、と思ってしまう。子どもにすればいい迷惑ではないか。

子どもには、自分の意見を表明する手段がない。それをいいことに、大人は、自分たちの不始末の責任を子供に押し付けようとする。それは一種の搾取である。何かいいことを言っている感じにはなるが、実際には無責任極まりない発言である。

4

ハイデガーは、哲学者としてよりも、古典研究者として優れていたと思う。彼の学問は常に、ギリシャ哲学やスコラ哲学の研究の上に成り立っていた。だからこそ、独創性のある思想を作り上げることができたのである。

日本の哲学研究に足りないのはスコラ学である。スコラ学は近代哲学の基礎をなしているので、それが理解できていないと応用が効かない。日本の哲学が欧米の後追いにしかならないのは、そのあたりに原因がある。

そもそも、日本語で利用できるスコラ学の文献が少なすぎる。カントやヘーゲルの文献は揃っているが、トマスやアヴィセンナはほとんどない。しかし、後者をしっかり学ばなければ、西洋の哲学を理解できるわけがない。

日本の哲学者は表面的な流行ばかり追いかけていて、基礎ができていない。もうちょっと歯ごたえのある仕事をしてほしいものである。

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