自由意志と責任

1

自由意志は存在しない。少なくとも、責任や罪の重さについて考えるときには、自由意志が存在すると考えるべきではない。

罪は、正しい行いを行わなかったときに生じる。義務を果たさなかったときに生じる。その原因は追究されるべきであるが、自由意志が原因として措定されるべきではない。

自由意志は因果律の特異点である。そこから前には因果律をさかのぼることができない。それを認めてしまうと、量刑は不可能になる。


ある事件において過失が認められる場合、それがどれだけ避けえないものであったか、ということが問題とされる。つまり、その人が義務を果たすことがどれだけ可能であったか、あるいは、その義務が実際にはどういう性質のものであったのか、ということを明らかにしなければならない。それは、その人が置かれていた状況を作り出した原因を考察することによってのみ可能となる。そして、義務の範囲を確定することができたときに初めて、そこからの逸脱を議論することができ、罪を確定することが可能となる。

行うべきことを行わなかったことが罪だとするならば、行うべきことが何であったのかを明らかにする必要がある。行うべきでないことを行ったことが罪だとするならば、行うべきでないことが何であったのかを明らかにする必要がある。それを確定することが可能となるのは、この世界から因果律に従わないものを取り除くことによってである。

原因によらずに結果が生じることを認めるのであれば、ある状況を作り出すために必要な条件を確定することができず、そうであるならば、その状況を作り出すために、ある人物がどのような努力をしたのか、あるいはしなかったのか、ということを確定することができなくなる。それは、罪の範囲が確定できなくなることを意味している。したがって、すべての物事に原因があることを認めなければ、罪という概念は成り立たない。ゆえに、因果律から独立したものとしての自由意志の存在は、決して認めることはできない。

この場合、当人が過失を犯した原因を特定する必要はない。行うべきことが何であったかが確定されれば十分である。罪の重さを確定するために、自由意思の有無を明らかにする必要はない。たとえそれが存在したとしても、罪の重さとは一切関係がないものと考えられる。

また、罪を考えるときに、行為の主体を仮定する必要はない。行為そのものの違法性を考えればよい。行為者の年齢等の性質は、単に条件として考慮されるべきである。


原因の究極を知ることはできないが、そのことは現実の生活とは関わりがない。なぜそれを行ったのか、という問題に答えなくとも、罪を明らかにすることは可能である。

結局、我々にはすべての原因を明らかにすることはできないのだから、我々に知りうる範囲の知識で満足するしかない。もちろん、原因を追究する営みは否定されるべきではない。それは人間の理性にとって必要不可欠のものである。

2

誰かが決定論を主張するとき、その内容を彼が知らないならば、彼の主張は無意味である。何かが決定されていることは知っているが、何が決定されているかは知らない、ということは、何も知らないのと同じである。その場合、彼の主張が正しいかどうかを判断すべき根拠がないので、そもそも彼が正しいかどうかを判断することができない。

一方で、すべての現象には原因がある、という主張を否定することは許されない。それが否定されたならば、人間のあらゆる理性的な営みは成り立たなくなるだろう。

因果律は単なる事実である。我々がジャガイモを茹でるのは、そうすると柔らかくなるからである。ここで、ジャガイモを茹でることと、それが柔らかくなることの間に因果関係があることを否定する者は、生のままジャガイモを食べるがよかろう。自由意志や決定論は言葉の問題に過ぎないが、因果律は現実の問題である。まったく次元が違う。

哲学者は言葉にこだわるが、彼らの議論はたいてい現実とは関係がない。たとえば、因果律を習慣だと言う人がいる。もしも彼が、我々はただ習慣としてジャガイモを茹でているだけだ、と言うのであれば、無駄な習慣を捨てて、死ぬまで生のジャガイモを食べ続ければよい。

このように、哲学者の議論は子供の屁理屈と選ぶところがない。しかし、哲学者を反駁するために、彼らの意見を研究する必要はある。それは無益なことではない。

3

自由意志や意識の存在を倫理の問題と結びつけようとする人がいるが、それは不可能である。

そもそも、すべての人間は意識を持っている、という命題を証明する手段がない。もしも意識というものが、客観的には認識されえないものであるならば、ある人間が、自分には意識がないと主張しても、それを否定することはできないことになる。

もしも私が、自分には意識がない、と主張し、その上で倫理的な判断をなしえると主張するならば、意識の存在と倫理を結びつけようとする、いかなる議論も無意味であることになる。それでもなお、そうした議論を擁護したいのであれば、あなたは、私に意識があることを証明しなければならない。自分には意識がない、と主張する人間に意識があることを、どうやって証明するつもりだろうか。

主体の存在は単なる仮定に過ぎない。それは証明不可能な仮定である。そのような不合理な仮定に基づいて倫理的な判断を下すことは、慎むべきである。


人間は因果作用の一時的な集合である。

そこに何らかの実体を仮定することは可能であるが、そうすべきであるという根拠はないし、意味もない。その仮定は議論を複雑にし、誤りやすくするだけである。

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