敬語について

 日本語で敬語を使おうとする場合、文法に強い制約がかかる。
 たとえば、天皇陛下の仕事はこれこれである、という文を考えてみよう。この文は、このままでは敬語にすることはできない。これを敬語にするためには、天皇陛下はこれこれの仕事をなさる、あるいは、おやりになる、というように、文の構造を変えなければならない。
 尊敬語を使う場合には、敬語を使う相手を動作の主体にして文を作る必要がある。いまの例では「仕事」を主語にすると敬語を使えないのに対して、「天皇陛下」を主語にすると敬語を使えるわけである。
 ゆえに、尊敬語を使うことによって、文章表現そのものが、相手の意思を尊重するようなニュアンスを含むようになる。それによって、相手に主体性があることが自然に強調されるのである。そういう理由があるので、日本語にとって、敬語は非常に重要な要素である。

 そして本来の日本語では、天皇には常に敬語を使わなければならない。ということは、天皇は、日本語において、あらゆる動作の主体として現れてくるわけである。したがって、日本語という言語には、構造上すでに天皇の存在が埋め込まれていると言える。おそらく日本語が存在する限り、天皇制は存在し続けるだろう。それが良いか悪いかは別にして、そういうものである。
 そう考えると、GHQの行った日本語への統制は、天皇制を形骸化させるための、最良の試みだったと言えるだろう。敬語の衰退は天皇制の衰退を招く、と言えるかもしれない。

タイトルとURLをコピーしました