全称命題と単称命題

 全称命題と単称命題の区別は、現代論理学の基本である。アリストテレスはこれを厳密に区別できていなかった、という指摘があるが、それはおそらく正しいだろう。普遍と個物の関係を把握することは常に難問であり、そもそも論理学で扱いきれる問題ではない。
 しかし、この区別には基本的な重要性がある。そして、哲学者や思想家といった人々に欠けているのは、この区別である。
 全称命題とは例えば、すべての人間は死ぬ、という命題である。単称命題とは例えば、ソクラテスはわし鼻である、という命題である。ある集合に属する全ての個体に関する主張が全称命題であり、一つの個体に関する主張が単称命題である。

 世の中には非常に不思議な議論があって、たとえば、私には自由意志があるように感じられる、ゆえに、すべての人間には自由意志があるのだ、といった主張を行う人がいる。しかし、彼に自由意志があるということは、すべての人間に自由意志があることを意味しない。彼には、全称命題と単称命題の区別がついていないのである。
 自分に関してだけ成り立つ命題を、自分以外の人間に対して無条件に適用することは誤りである。しかしすべての哲学は、この誤りの上に成り立っている。クオリアや意識の問題も、その延長線上にあるだろう。
 もちろん、それが常に誤りであるわけではない。その命題が、すべての人間に適用できることを証明できる場合や、常識に照らしてそれが明らかな場合は別である。

 また、証明が必要な命題と、証明が必要でない命題の区別も重要である。たとえば、すべてのカラスは黒い、という命題は証明が必要である。しかし、すべてのカラスが黒いとは限らない、という命題は証明の必要がない。なぜならば、後者には蓋然性があるからである。
 先ほどの例で言えば、すべての人間には自由意志がある、という命題は証明が必要であるが、すべての人間に自由意志があるとは限らない、という命題には蓋然性がある。むろん、ここでも常識が優先される。

(芸術と模倣 終)

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