日本人と差別

人種は目に見えない

以前の記事で、日本には人種差別は存在しない、という話をした。なぜかというと、日本人は人種という観念に馴染みがないからである。

たとえばアメリカでは、その人の数世代前までさかのぼって、何十分の一かでも黒人の血が混じっていれば、その人は黒人だ、と判断されることがある。日本人からするとパラノイアにしか見えないが、アメリカ人は至って真面目にこういうことをする。

基本的に人種は目に見えないものである。数世代前に一人だけ黒人が混じっている人は、外見的には全く黒人ではない。しかし彼は、黒人という民族の本質を分有しているので、黒人だとみなされる。つまり人種とは、民族に内在する霊魂を意味する言葉であり、そうしたものが存在すると信じる人間にしか通用しない概念である。

日本人は、そういう目に見えないものを信じようとしないので、人種という概念も十分に理解しているとは言えない。したがって、彼らは人種による差別を行わないと考えられる。

文化による差別

人種差別がない代わりに、日本には、文化に基づく差別が存在する。これは、中国の華夷思想と比較するとわかりやすい。中国では昔から、皇帝を中心とする文明世界に対して、その辺境に夷狄の世界が存在すると考えられてきた。皇帝が文明の中心で、それが周囲に及ぼされていくが、その影響がまだ及んでいない野蛮な地域がある。そうした夷狄と中華の区別が、差別を生む原因となりえた。

ただ、この区別は人種的なものではない。ある人の、何世代か前の祖先が夷狄であるかどうかということよりも、彼や、彼が属する社会の文明化の程度が問題なのである。つまり、彼がどれだけ中華文明を分け持っているか、ということが、差別の原因となりうる。もちろん、それが直ちに差別を生むとは限らないが、そうした区別の仕方が、東アジア世界にはあるように思われる。人種によってではなく、文化によって人を判断する。

おそらく、日本における差別もそのようなものであろう。日本人は、その人が日本的な文化を分け持っているかどうか、という点で人を判断する。その日本文化というものが、どういうものであるのかは、よく分からない。だが、いくつかの特徴は指摘できる。

上でも述べたように、日本人は、目に見えないものを信じようとしない。たとえば、彼らはキリスト教を信じない。なぜかというと、神は目に見えないからである。目に見えないから信じない。

一方で、仏陀は目に見える。もちろん、すでに死んでいるので直接見ることはできないが、過去に生きていた人間であることは確かである。また、彼の像もたくさんあるので、どういう人物だったのかイメージしやすい。それが日本人を安心させるのだろう。だから、仏教は信じる。

また、天皇も目に見える。彼は実際に存在する人間なので、信じることができる。

こうした傾向と同時に、目に見えないものを信じる人間を馬鹿にするようなところがあると思う。彼らはそこに詐欺の可能性を感じ取り、そうした人物と距離を置こうとする。目に見えないものを信じる人間は、日本では信用されない。彼は悪く言うとペテン師、良く言ってもお人好し、という扱いを受ける。

ある意味で、日本人は自分の理性を信用していない。何らかの理屈で説得されても、そこに実感が伴わないと、それを信じることができない。目で見えて、手で触れられるものでないと信用できない。それが日本人の特徴だと思う。

日本人の信仰

日本人とは何か、ということを考えるときに、天皇の存在は無視できない。もしかすると、天皇を信じられる人間が日本人だ、と言うこともできるかもしれない。しかし、無条件で天皇を信じられない人間のほうが、むしろ日本人らしい、とも言える。

西洋の文化に馴染んだ者からすると、これは奇異なことに思えるだろう。彼らは、目に見えないものを信じることに人間精神の最も高度な働きを感じる。日本人は逆に、目に見えるものを信じることに人間精神の頂点を見る。

なぜかというと、人を信じるということは、その人の心を信じることだからである。人の心は目に見えないものだ、と考える人もいるが、それは間違いである。ある人の心は、必ずその人の行動や発言に反映される。もちろん、心にもないことをやって見せて、人を欺くこともできる。しかしよく観察すれば、それが本心からのものなのか、それとも見かけだけのものなのか、判断するのは難しくない。

人の心は、必ずおもてに現れる。それを見逃さず、人の心を把握することこそが、人間精神の最も高度な働きだと言えるのである。

日本人が天皇を信じるということは、天皇の中にある不可視の神性を信じる、というようなものではない。そうではなく、天皇の心を信じるということである。それが正しいものであることを信じ、彼が人類すべての幸福を願っていることを信じる。もしもそうでないならば、彼には天皇である資格がない。そして、そのようなことがないように、天皇を教え導くことが日本人の責務であるとすら言える。こうしたことが、天皇信仰の内実であろう。

そうした意味での信仰は、いまでも生きていると思う。別に、天皇は神である必要はない。神でなくとも、信仰の対象となりうる。それが日本人の信仰の形である。

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