民族主義

 前世紀の日中戦争に見られるような、民族主義によって戦争が過激化するという現象は、西洋文明がもたらした惨禍の一つである。中国には、もともと自民族中心主義ともいえる中華主義が存在したが、その傾向は、西洋的な民族主義の影響によってさらに過激なものとなった。

 西洋人は存在にこだわる。何かが存在するという考えにこだわるあまりに、その考えの不合理に気付かない。
 私の言わんとすることは、読者諸氏にはすでにお分かりだろう。民族が存在する、という考えは誤りである。その誤った考えに基づいて、それぞれの国や地域で様々な思想が組み立てられ、それにそそのかされる形で、我々は激しい争いへと駆り立てられていった。
 民族は空である。民族なるものはどこにも存在しないし、民族の精神なるものも存在しない。日本人は存在しない。中国人は存在しない。満洲人は存在しない。存在するのは一人ひとりの人間であって、「日本人」などというものはどこにも存在しない。それは目にも見えないし、耳にも聞こえない。私は、ある一人の人間の声を聞いたことはあるが、日本人なるものの声は聞いたことがない。

 国家とは、人間の集合である。社会とは、人間の集合である。民族とは、人間の集合である。それ以上のものではない。
 我々は、日本政府がこれこれの政策を実行した、という言い方を日常的にしている。しかし、実際に仕事をしているのはそれぞれの人間であって、日本政府なるものがどこかに存在して、それが書類を書いたり、スピーチをしたりしているわけではない。
 日本政府とは人間の集合である。我々は、それら人間の仕事に対して、仮に「日本政府」という主語を用いて語っているにすぎない。実際に存在しているのは個々の人間であり、国家も政府も民族も、言葉の上で語られるだけで、現実には存在しない。これを仮名(けみょう)という。

 民族が空であることは、他にも様々な方法によって示すことができる。それは読者への練習問題としよう。そうした訓練を通じて、民族という観念の不合理さが実感できるようになるだろう。


 最近の哲学者は固有名にこだわるが、実際には固有名も普遍名も区別はない。
 名前の問題にこだわるのは論理学者の特徴である。彼らは現実を見ずに、言葉遊びに没頭する。言論の自由は、それら夢遊病者の収入を保証するための手段にすぎない。哲学者は人間社会の寄生虫である。しかし、一寸の虫にも五分の魂があると言うので、彼らにも何か使い道があるのかもしれない。

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