サンマについて

1

海洋資源の利用については、国際的な協調が必要である。現在の国際社会においては、領海や排他的経済水域というものが設定されていて、その範囲内であれば、主権国家は好きなやり方で海洋資源を利用してよい、ということになっている。また公海上では、どこの国がどれだけ魚を取っても構わない、という決まりである。

しかし海というものは全てつながっているので、こういうやり方は大雑把すぎる。公海上で中国漁船がサンマを大量に獲ってしまえば、日本近海にはサンマが来なくなり、日々の食卓からサンマがなくなってしまう。牛や豚ならば、柵で囲って、自分の牛と他人の牛を明確に線引きできる。だが、魚はそうはいかない。海洋資源の利用に関しては、現在の国際社会のルールは個人主義にすぎるのである。

自国の領域でなら何をしてもよい、というのは、国家レベルの個人主義である。陸上ではそれもある程度は機能するだろうが、海洋上では上手くいかない。そこでは国家間の協調が不可欠である。必要なのは、日本や中国、台湾などの東アジア諸国が、協力して海洋資源の調査を行い、包括的な漁獲量制限を設けることであろう。

2

いったい、海洋における主権者とは誰なのか。誰がサンマの命に対して責任を負うのか。

そもそも漁業者の組合は、どうして国家に所属しなければならないのか。海洋上の問題については、国家ではなく、漁業者が責任を負うべきではないのか。海洋における主権者は、海洋において生活し、生活の手段を得る人々ではないのか。なぜ、すべての責任が国家に集約されねばならないのか。

国家は国民の生命に対して責任を負うが、それと同じように、漁業者は海洋生物の生命に対して責任を負わねばならない。国家が野放図な乱獲を進めようとするならば、漁業者は協力してそれを食い止めねばならない。国家が海を破壊しようとするならば、我々がそれを阻止せねばならない。我々は、我々自身の権利を守らねばならない。

国家にはあらゆる責任を負う能力がある、という考えは誤りである。それは単なる責任転嫁であって、それぞれの生活者は、それぞれの生活の範囲の物事に対して、責任を負わねばならない。近代国家というシステムは、個人の責任を、国家という他者に押し付けることを可能にする。それは究極の無責任社会である。

杜甫は「国破れて山河在り」と歌った。山河があるうちはまだよい。我々はそれすら失おうとしている。

3

漁獲枠の設定は、漁業者自身がやるべきだろう。これ以上、政府が動くのを待つことはできない。

国家の権力の源泉は、暴力であると考えられている。それは法治国家の場合である。

では、徳治国家の権力の源泉は何か。それは利益である。その秩序に従うことによって、利益が得られることが期待される場合に、徳による統治は機能する。

国家に代わるべき我々の政治機構は、その構成員に利益を保証することによって秩序を実現する。むろんその統治は、法治国家ほど強力なものにはなりえない。だが、かえって融通の利くものになるだろう。

我々は、法治国家が提供する以上の利益を人民に提案する。それのみが、その統治の正当性を保証することになるだろう。

4

宮城県の水産業復興特区の結果が芳しくないのは、規模が小さすぎたことと、行政が主導したことが原因ではないか。行政と漁業者の利益は基本的に一致しない。漁業権の解放のような試みを進めるならば、その推進母体は、その事業と利害を共にする者でなければならない。必要なのはより高度な自治ではないか。

そもそも水産業の復興のためには、宮城という一地方の試みだけでは不十分である。漁業権の見直しや、漁獲量の制限を全国的に進めなければ、明確な成果を出すことは難しいだろう。しかし、海洋資源量の回復とその管理を適切に行えば、漁業の利益率を上げることは十分に可能である。それが日本漁業の復興、ひいては被災地の復興につながるだろう。

海洋資源の回復は、直線的には進まない。それはむしろ等比級数的に進むだろう。一匹のサンマが一年に百匹の子供を作り、その子供のそれぞれが、さらに百匹の子供を作るならば、二年間で資源量は一万倍になる。元手がどれだけ小さくても、それは爆発的に成長するのである。自然界のルールは、人間界のルールとは全く異なる。上手に利用するならば、それはまさに無尽蔵の利益をもたらすだろう。

自然を搾取するために必要なものは、辛抱強さである。ただじっと待っているだけで、利益は向こうからやってくる。だがそれは、口で言うほど簡単ではない。

5

これはある意味で、原子炉内部の反応と似ている。

臨界反応とは、サンマが一度に一匹以上の子供を作る状態である。一度に生まれる子供が二匹ならば、一年後には二匹、二年後には四匹、三年後には八匹、と倍々に増えていく。核反応では、これが非常に短いスパンで起きるので、あっという間に反応が拡大する。そのため、臨界状態を維持してエネルギーを取り出すのが、最も効率が良い方法である。サンマも同じで、最も増殖のスピードが速く、かつ制御しやすい臨界状態を見つけ出す必要がある。

おそらく原子力を扱う際にも、重要なのは待つことだろう。エネルギーを無理やり取り出そうと思うと、失敗する。それをスムーズに引き出すためにはどうすればよいか、と考えなければならない。

厄介なのはやはりプルトニウムで、プルトニウムはウランの一万倍のスピードで反応が進む。これは、一時間でサンマが二倍に増えるようなものである。そうすると、次の日にはもう一千万匹に増えている。このスピードでは手に負えない。ゆえにプルトニウムの場合、いかにゆっくりと反応を起こさせるか、ということが鍵になる。ウランの燃焼とは全く異なる発想が必要である。

個人的には、もんじゅのような高速増殖炉を実用化するためには、まだいくつかのブレイクスルーが必要だと考える。現在の技術では、暴走の危険性が無視できないように思われるからである。それよりは、加速器型の原子炉の方が現実的ではないか、という印象を受ける。日本でも実験炉を作ってみてはどうか。

プルトニウムは有望なエネルギー源である。だからといって過度な期待を寄せるべきではないが、その有効利用について全く考えないのも愚かである。使えるものは何でも使ったほうがよい。

また日本には、すでに大量のプルトニウムが貯蔵されている。軽水炉の運用を止めたとしても、すでにあるプルトニウムがなくなるわけではない。我々は、これを処理する方法を考えなければならない。後戻りはできないのである。

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