輪廻と主体性

宿業という言葉がある。前世の行いによって、今世における自分の状況が決定される、という考えである。貧乏な人は、前世で泥棒をしたからそうなったとか、飢餓に苦しむ人は、前世で食べ物を粗末にしたのだ、とか言われる。こういった話にどんな意味があるのだろうか。

ここにあるのは絶対的な主体性である。自分が置かれている状況を、他人のせいにせず、すべて自分が原因だと割り切ってしまう姿勢である。過去の自分の行いによって、いま自分が持っている性質すべてを説明してしまう。そこには他者が入り込む余地が全くないのである。

たとえば、この状況を神が作り出したのだとすれば、我々は神を恨むことができる。私が貧乏なのは私のせいではなく、神のせいだ、という言い訳ができる。もちろん、神でなく環境や国、遺伝子のせいにすることもできる。

自分の置かれている状況が、自分以外の原因によって作られたのだとすれば、自分の努力によって、その状況を変えることはできないかもしれない。こうした考えがあきらめを生み、無力感が生じる。そこには主体性が欠如している。

しかし、もしも、自分の置かれている状況が、すべて自分の行いが原因となって生じたのだとすれば、自分の行いを変えることで、その状況を変えることができるかもしれない。そう考えたときに、主体性が生まれる。状況をコントロールしているのは自分なのだ、という思いが生まれる。

輪廻にはそういう意味もあると思う。自分の力を信じなさい、ということである。

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