資本主義とAI

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AIが進歩すると、生活が豊かになるとか、仕事が奪われて、逆に人間は不幸になるとか、色々なことが言われている。

AIが進歩すると、たとえば新製品の設計とか、新しいソフトウェアの開発とかも、できるようになるかもしれない。そうすると、人間は研究開発をしなくてもよくなるが、代わりに開発者やプログラマーの仕事はなくなる。では、それらの人々には、全く仕事がなくなるのだろうか。

おそらく、そうではない。たとえ、製品の開発をAIが行うようになったとしても、完成品のテストを行う人間が必要になるだろう。AIが作った製品を、AIが使うのであれば、AIがテストを行えばよい。しかし、人間が使う製品のテストは、どうしても人間が行わなければならない。

そうすると、AIがソフトウェアの開発を行うようになった世界では、人間の仕事は、出来上がったソフトウェアのテストとデバッグしかなくなるだろう。その仕事だけは、AIにはできないからである。しかし、一体誰がそんな世界を望むのだろうか。

プログラマーはコードを書いているときが一番楽しい。人間は、自分の仕事に夢中になっているときが、一番楽しいのである。その楽しみを奪うことによって、どうやって豊かな社会を実現できるのだろうか。

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資本主義を擁護する人々は、一人ひとりの人間が自分の利益を追求することによって、社会全体の利益が増加する、ということを強調してきた。たとえば、ある会社が利益を上げようとすれば、他の会社よりも多くの製品を売らなければならない。そのために、消費者に気に入られるような、品質の良い製品を作る努力をするようになる。それによって人々の生活の質が向上し、社会全体が豊かになる。これが資本主義の理念である。

しかしAIの場合は、これは当てはまらない。性能の良いAIを開発することで、その開発者は利益を上げるだろう。しかしながら、それが社会全体の利益になるとは限らないのである。性能の良いAIは、人々から仕事を奪い、人生の豊かさを奪ってしまうかもしれない。ここでは、個人の利益の追求は、社会の利益と一致していないように思われる。

資本主義を支えている理念は、非常に脆弱なものである。奇跡的によい条件が重なった時にのみ、資本主義は社会の福祉と合致する。しかし、その条件は普遍的なものではありえない。むしろ一般的には、資本主義の理念は社会の利益に反する、とさえ言えるだろう。なぜならば、個人の利益の追求が常に社会の利益と一致する、という思い込みは、明らかに社会にとって有害だからである。

ある行為が、自分一人の利益にはなるけれども、自分以外の人間の利益を著しく損なう可能性がある、という場合には、その行為を行うべきではない。あるAIを開発することで、自分一人は儲かるけれども、自分以外の人々が不幸になるのであれば、そのようなAIは開発するべきではない。

個人の利益の追求は、公共の福祉に反しない範囲でのみ認められるべきである。もしも、資本主義がこの原則に抵触するのであれば、それは否定されねばならない。

これは倫理の問題である。このような問題に直面した時に、どのような判断を行うか、ということが、その人間の価値を決める。ゆえに、この種の価値判断を、法律や、それ以外の手段で人に強制することはできない。人間は、自分がどのような人間であるべきかを、自発的に決定しなければならない。

ここで私は、社会という言葉を、自分と自分以外の人間の集合、という意味で使っている。それ以上でも以下でもない。その集合の範囲をどこまで広げるかによって、社会の大きさは変化するだろう。しかし現代においては、地球上のすべての人間が、ひとつの社会を構成していると考えるべきである。

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税金は、金のあるところから取るしかない。ないところから取ろうとしても、上手く行くはずがない。安定的に税収を確保するためには、金持ちから金を取る必要がある。そのためにも、世界政府が必要である。世界全体をひとつの政府が管理するようになれば、税金逃れは難しくなる。

もちろん、あまり締め付けを厳しくすると、自由な経済活動が阻害され、新しい発明が生まれなくなるかもしれない。また、共産主義のように、資本家の命まで奪おうとするのは逆効果である。死んでしまったら、税金を取れなくなってしまう。だから、金持ちは生かさず殺さず、適度に搾取するべきである。

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