外出の自粛は誰のためか

新型ウイルスの流行を食い止めるために、外出の自粛や、様々な活動の自粛が呼びかけられている。政治家は、それを国民の利益のためだと言うが、本当にそうだろうか。

たしかに、ウイルスに感染する可能性が低くなることは、よいことかもしれない。重症化すれば死に至ることもある病気だから、感染しないに越したことはない。しかし、外出の自粛によって経済が停滞しつつあるのは確かだし、もっと直接的には、飲食店やバーなどは倒産の危機に直面している。つまり、外出の自粛が国民生活を圧迫している、という側面も多分にある。それが本当に国民の利益にかなっているのかどうか、よく考えてみるべきではないか。

とくに飲食店の経営者や従業員には、外国人も多いはずである。彼らのような人々が、一般の日本人のために犠牲になるということは、あってはならないことである。


外出の自粛によって、得をする人々と、損をする人々がいる。その分布は一定ではなく、特定の人々に負担が押し付けられる構図になっている。果たしてそれでよいのだろうか。

政治家は美辞麗句を連ねることで、その事実をごまかそうとしている。彼らにとっては、外出の自粛は無条件によいことである。なぜならば、その人が知事を務めているときに、県内で感染症が流行し、多数の死者が出る事態になれば、彼の経歴に傷がつくことになるからである。ゆえに、感染者を減らすために外出の自粛を要請することは、政治家自身の利益にかなっていると言える。そして、社会的な地位や立場が政治家に近い人々も、彼らの判断を支持する。ここには明らかに、昨今よく耳にする格差社会の影響が現れている。

国民とは誰のことか。国民という言葉によって、何が覆い隠されているのか。実際には国民など存在しない。現実に存在するのは個々の人間であって、国民というものはどこにも存在しない。そして、ある社会現象に直面した時に、それぞれの人間がどのような利益・不利益を被るかということは、それぞれの立場によって全く異なる。国民の総意など初めから存在しない。

民主主義は、全体主義を発生させる装置に過ぎない。民主主義と全体主義は本質的に同一のものである。

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