どうすれば戦争責任を果たせるのか

歴史修正主義について」の中で、保守とリベラル双方の歴史認識に問題があることを指摘した。とくにリベラル側に深刻な問題があると思うので、ここではそのことを議論したい。前回の続きとして読んでほしい。


リベラルの問題点は、人命は何よりも尊い、という信念であろう。この信念にとらわれて、彼らは思考停止に陥ってしまう。あの戦争で○○万人が死んだ、と言われると、悲惨な出来事だったね、というだけで終わらせてしまう。そこで思考が止まり、文明の罪がどうのこうのとか、どうすれば贖罪ができるのか、という話になってしまう。

彼らはそもそも、歴史に興味がないのだろう。どうしてそのような事態が起きたのか、という原因を追究しようとは思わず、そうした追究の試みすべてを、罪を逃れるための不純な行いだと見なそうとする。自分が犯した罪とはきちんと向き合わなければならない、ということを言い訳にして、歴史から目を背ける。そしてそれが、さらに次の罪を作り出すのである。

日本人が加害者で、中国人は被害者だ、という見方をとる限り、モンゴル人の問題は出てこない。だが、日本が大陸進出を続ける過程で、モンゴル人は日本と中国の板挟みにあい、両国の政治に翻弄され続けた。その中で懸命に民族の独立を求めたが果たせず、モンゴルは南北に分断されてしまった。そして南モンゴルは、今に至るまでずっと、共産党の圧政下で苦しみ続けてきたのである。

日本が加害者で、中国が被害者だとするなら、モンゴル人は何なのか。この構図の中では、モンゴル人には存在する場所が与えられていない。日本のリベラリストは、自分の罪を責めるために、無理やり罪を作ろうとしてきた。そして、彼が罪を犯したのだとすれば、その被害にあった人物がいなければならない。そうしていったん被害・加害の関係が成立すると、第三者はそこから排除されてしまう。

自分の罪を責めるということは、それ以外の責任をすべて放棄するということである。日本人が戦争責任と真剣に向き合うことができないのは、分かりやすい罪を認めてしまうことで、本当に果たすべき責任を見失ってしまうからである。小さな罪を認めることで、より大きな罪から逃れようとしているのである。

日本人は、モンゴル人の運命に対して責任を負っている。日本が大陸に介入したことで、彼らをめぐる政治情勢は変化し、その過酷な運命はいまも続いている。我々は、過去の日本人の行いによって運命を変えられたすべての人々が、幸福な生活を営めるように努力しなければならない。それが本当の戦争責任である。

日本人が中国人を殺したことは事実だが、それは過去のことである。だが、中国国内の少数民族が置かれている状況は、いまも変わっていない。過去の罪を責めるよりも、現在の責任を果たすことの方が重要ではないか。

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