熱交換について

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 この宇宙に存在するあらゆるものは、互いに熱を交換し合っています。それがどれほど遠くにあろうとも、物理的に接触していなくとも、熱の交換を妨げることはできません。
 一般的に、熱の交換は輻射という形で行われます。つまり、光が熱を伝えています。あらゆる物体は、その温度に対応した光を、常に放出し続けています。そして、その光によって、他の物体を温めています。光は真空中を伝わるため、離れた場所にあるもの同士を、熱的に接触させることができます。ゆえに、熱の交換から逃れられるものは、この宇宙に存在しません。

 ここで、光によって熱を交換する二つの物体の間に、三つ目の物体を置いて、その光を遮ったとしましょう。その場合、はじめにあった物体から放出される光によって、三つ目の物体が温められ、その熱が反対側の物体にまで伝わることになります。この考察によって、いかなる方法によっても、任意の二つの物体間の熱の交換を妨げることはできない、ということが分かります。
 そして、それらの物体の温度が一致したときに、熱の交換は止まります。これが、熱力学の第0法則と呼ばれる、熱平衡の法則です。熱力学は、人類が今までに獲得した科学的知識の中で、最も深遠なものです。

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 熱力学で難しいのは、温度と熱をどう定義するか、ということです。熱平衡によって温度が定義できると考えればよいのか、それとも、温度によって熱が定義されると考えればよいのか、どうにも分かりません。
 現在では、気体の力学的振る舞いから、熱とエネルギーは等価であると考えられています。ここに、力学と熱力学の接点があります。そして、この二つの科学を強引に結びつけたものが、統計力学です。
 ニュートン本人が言っているように、ニュートン力学は仮説ではありません。それは単なる事実です。同様に、熱力学も事実であり、仮説ではありません。しかし、統計力学は仮説です。それは、原子の存在という、検証不可能な仮説に依存している点で、前の二つとは異なります。

 量子力学は、統計力学を正当化するために生み出されたのだと、私は考えます。一部の科学者が原子の存在に固執したために、近代科学全体が歪められ、量子力学という奇妙な学問が成立しました。アインシュタインの限界は、原子の存在を肯定しながら、量子力学を批判しようとしたところにあったと思います。まず、原子論こそが批判されるべきだったのです。
 近代科学の起源には、一種の信仰が存在するように思われます。それは、ユダヤ教の信仰にも似た、超越的なものへの信仰です。それは、原子や法則への信仰であり、不可知のものの実在を無批判に受け入れるような、反理性的な傾向です。
 ニュートン力学は単なる事実であって、法則ではありません。法則の実在を仮定するところから、間違いが始まります。その意味で、ニュートン力学は正しい学問であり、近代科学は間違った学問であると言えます。

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 また、ニュートン力学は、相対性理論や量子力学とは矛盾せず、むしろ、これらの物理理論が意味を持ちうるためには、ニュートン力学が不可欠のものであることを指摘しなければなりません。
 そもそも、運動の三法則を認めなければ、相対論が意味をなさないことは明らかです。力と加速度の方程式は、あらゆる物理学を基礎付けています。たとえば、コンプトン散乱について考えるときに、エネルギー保存則と運動量保存則を利用しない人がいるでしょうか。物理学者は、ほとんど無意識のうちにニュートン力学の成果を利用しているために、自分たちがどれほどそれに依存しているか、ということに気付かなくなっています。
 ニュートン力学がなければ、量子力学もありえないし、相対論もありえません。相対論が否定したものは、ニュートン力学そのものではなく、それを記述するときにニュートンが用いた概念的な枠組みだけです。彼の力学そのものは、無傷のまま残されています。

 二十世紀の物理学者が犯した錯誤は、ある物理学理論と、それを記述するための概念とを同一視したことです。ニュートン力学は、彼が提示した概念のもとでのみ、意味を持つわけではありません。およそどのような概念のもとであれ、それが現実の物理現象を表現するものである限り、ニュートン力学は成立しています。「我は仮説を作らず」という言葉は、そのように理解されるべきです。もしも、ニュートン力学と矛盾するような科学理論があれば、その理論は確実に間違っています。
 量子論が主張するような不確定性について、ニュートン力学は何も述べていませんが、だからといって、ニュートン力学と量子論が矛盾する、と言うことはできません。ニュートン自身は、決定論についてどんな考えも述べていないと思います。量子論と比較されるような意味での決定論を主張したのは、ラプラスであって、ニュートンその人ではありません。つまり、ニュートン力学は、必ずしも決定論を意味しません。ゆえに、量子論はニュートン力学に反する、という意見は、すべて思い込みに基づくものだと言えるでしょう。また、もしも、現在の量子力学の体系内に、ニュートン力学に反するような部分が認められるならば、それは修正しなければならないと思います。

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 また、因果律と決定論を同一視する間違いもよく見受けられます。しかし、これらは全く別のことを意味しています。この問題については、他の論文でも議論をしました。
 私が、ニュートンの力学が正しいと考えるのは、それが因果律の必要条件を示しているように見えるからです。つまり、ニュートン力学が成り立っていないところでは、因果律が満たされないように思われます。明快な言葉でこのことを表現することは非常に難しく、私には、そのように思われる、としか言うことができません。明示的な証明はおそらく不可能でしょう。なぜならば、因果律とは何であるか、ということ自体が、そもそも説明しがたいものだからです。
 因果律に関する最も明快な定式化は、仏陀によってなされました。

  これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず
  これなければこれなし、これ滅すればこれ滅す

 因果律について、これ以上のことを語ることはできません。

 重要なポイントは、因果律が成り立っていると言うためには、原因がないときには結果がない、ということを示さなければならない、ということです。そして、決定論に欠け落ちているのは、この観点です。決定論においては、先行する事象によって、後に生じる事象が決定される、ということが強調されますが、それだけでは、因果関係を確定することはできません。決定論は、「これあればこれあり」の場合だけを考え、「これなければこれなし」の場合を考えていません。したがって、因果律と決定論の間には何の関係もない、と言わざるをえません。
 因果律は、場合分けの方法によってのみ把握されうるものです。しかしそれは、因果律が、我々の思考の産物だということではありません。こういう言い方は正確ではありませんが、因果律は実在します。それはこの世界の根本的な性格です。そして、我々がそれを把握するためには、場合分けという思考法に頼らざるをえない、ということです。それが本当かどうか、と疑うことは可能ですが、その疑いは時間の無駄です。
 因果律ほど明確な事実は存在しません。しかしながら、それを証明することは不可能です。なぜならば、因果律に代わる説明を言葉の上で作り出すことは、いくらでも可能だからです。それが存在することは明らかですが、それを保証してくれる人はどこにもいません。我々は、自分でそれを信じるしかないのです。そこに信仰の難しさがあります。
 アインシュタインはそれを神と呼びました。仏教ではそれを縁起と呼びます。名前が異なっても、それらは同じものです。

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 アインシュタインは、電子などの素粒子や、もしかすると光子をも、実在の要素と考えていました。そのために、量子力学は実在の記述としては不完全である、と主張しました。しかし、私の意見では、電子も光子も実在の要素ではありません。したがって、アインシュタインが述べるような意味で、量子力学が不完全であるとは言えないと思います。
 量子力学が記述しているものは、一種の連続体です。しかしながら、我々はまだ、それについて十分に理解しているとは言えません。そこでは、時空に関する記述は二次的な意味しか持ちえません。おそらく時間や空間は、その連続体の性質の一部として理解されるでしょう。超弦理論や量子重力理論がその理解に役立つかどうか、私には分かりません。しかし、様々な試みがなされるべきです。
 現在の量子力学は、明らかに不十分です。それは無矛盾であり、実在を正確に記述してはいますが、この世界の本質に対する洞察としては、やはり不十分です。つまり、理解不能です。量子力学を理解可能なものとするための、新しい説明の枠組みが必要であると思います。

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 微分方程式によって実在を記述することは困難であるように思えます。初期状態と微分方程式によって、その後の系の状態がすべて決定される、という考えは決定論的です。したがって、その考えが否定されたとしても、因果律が否定されたことにはなりません。現在までに分かっている限りでは、決定論的な自然の記述は不可能です。しかし、そこから因果律を救い出すことはできると思います。
 アインシュタインが示した、微分方程式系の過剰決定という考えは、一つの方向を指し示しているように思えます。解析的に記述され、かつ、決定論的ではなく、因果律を満たす物理理論の候補としては、それ以外にはないのかもしれません。しかし、仮にそのような方程式が見つかったとして、その解を求めることが可能かどうかは甚だ疑問です。過剰決定によって初期状態が決定されるような方程式に、一体どんな意味があるのでしょうか。
 けれどもやはり、彼の想像した「超因果律」は、我々が把握している因果律と同一のものかもしれません。そのような方程式系が見つかれば、それに越したことはありません。しかし我々は、それがなくても十分にやって行くことができるでしょう。物理学は、必ずしも数学に依存しなければならないわけではありません。(終)

<参考>
原子論批判
地球温暖化について

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