権力崇拝と自由主義

現代社会には権力への信仰が行き渡っている。この世界は弱肉強食であるとか、力のない者は何をされても文句を言えないとか、そういった考えを当然と思う人が増えているように感じる。そして、だからこそ自分は勝ち組にならなければならない、というふうにして、権力そのものを肯定するような傾向が生まれつつある。弱肉強食の世界を生き抜くための強さを求めることが、正しい生き方であると思い込むように誘導されているのである。

おそらくこれが自由主義のもたらしたものであろう。人間精神の極度の劣化、動物化である。このような考えに陥った者を、もはや人間と呼ぶことはできない。このおかしさが分からない人間に対して、一体どこから話したものやら見当がつかない。だが、説明をせねばならない。


まず、人間は一人で生きているのではない。本当の強さは、人と人との協力によって生じるものである。権力をめぐる戦いに明け暮れる人々よりも、団結して事業を行う人々の方が強い。個人としては前者の方が強いかもしれないが、集団として見たときには後者の方が強い。そして、社会全体の利益は後者の方が大きくなる。

アダム・スミスが言った通り、社会の利益は分業によって増える。互いの利益を奪い合うよりも、協力してより多くの利益を生み出す努力をした方が、社会全体の利益は大きくなると言える。この事情は囚人のジレンマとよく似ている。権力を求める人々は、その闘争によって自らの利益を損なっているのだが、彼らにはその失われた利益が見えていない。お互いが協力した場合に実現するはずだった利益が、彼らの目には見えていないのである。

これが人間の心の劣化である。二つの選択肢のうち、一つしか見えなくなってしまう。我々の前には、協力と競争という二つの選択肢があるのだが、権力の虜となってしまった人々には、片方の選択肢が見えなくなってしまう。人間は必ず競争を選ばざるをえない生き物である、という思い込みが、権力への信仰を支えている。


この、人間はこれこれの生き物である、という命題が興味深い。人間はAである。しかるに彼は人間である。ゆえに彼はAである、という三段論法を地で行っているわけである。人間は独りよがりの生き物である。だから彼は独りよがりであり、あなたも独りよがりであり、私も独りよがりである。これが自由主義者の三段論法である。

不思議なことに、ここには彼自身の意見が出てこない。自由主義者は、自分自身を客体化し、無個性の人間として扱い、三段論法の対象としてその性質を記述しようとする。これは卑怯である。というのも、彼は人間である以前に彼自身であるのだから、考察の対象としてではなく、考察する主体として、彼自身の意見を述べねばならない。いったい彼自身は独りよがりであるのかどうか、競争ではなく協力を選ぶことはできないのかどうか、そうした意見を先に述べるべきであろう。

自由主義者は、自分自身の存在を極限まで薄め、あたかも傍観者であるかのように意見を述べる。そのために、アリストテレスの三段論法を巧みに利用するのである。そうすることで彼らは、客観的であるふりをしようとするが、実際には自分の欲望を承認してもらいたいだけである。


また、「権力」なるものの存在自体、彼らが自分の立場を正当化するために作り出した妄想にすぎない。権力とは一体何であり、それはどこに存在するのか。たとえば、権力とは暴力のことだろうか。では、権力者が持っている暴力とは何か。

もしも、軍隊や警察力が権力の源なのだとしても、権力者はそれを自由に行使することはできない。警察には警察のルールがあり、軍隊には軍隊のルールがある。それを曲げてまで権力者に従う人間は、それらの組織には存在しない。したがって、権力者が行使しうる力は暴力ではありえない。では、権力とは何か。

権力とは、ルールを作る力のことだろうか。新しいルールを作り、古いルールを捨てることができるということが、権力の源なのだろうか。しかし、彼が新しいルールを作っても、誰もそれに従わなければ、そのルールは全く力を持たないだろう。つまり、ルールを作る人間と、それに従う人間が互いに協力することによって、ルールに基づいた秩序が成立するのである。その間のどこを探しても、権力は存在しない。権力の存在はただの幻想である。


改めて見てみると、権力という幻想が成立する過程は、自由意志という幻想が成立する過程と酷似していることが分かる。自分はこれこれのことをした、という認識が、自分にはこれこれのことをする力があった、という認識にすり替わってゆくのである。それが他者の協力によって実現したことであっても、あるいは単に偶然によって成功したことであっても、自分の意志と結果とが一致した場合に、意志が原因となって結果が実現した、と感じ、一種の万能感を抱くようになる。自分の賭けた馬が一等賞になったときに、意志が天に通じたのだと錯覚するようなものである。

権力もこれと同じである。自分には意志を現実に変える力があるという思い込みが、権力という幻想を成立させている。権力は現実における万能感をその基礎としているが、自由意志は内面における万能感をその基礎としている。現象としては自由意志の方が根が深く、その誤りを理解させることが難しいが、本質的には同種の錯覚である。

したがって、権力とは空気のようなものである。共同の思い込みだと言ってもよい。権力が存在すると考えている人間にとっては、それは存在する。権力の存在を信じている人間にとっては、それは現実の力を持ちうる。ゆえに権力崇拝者は、努めて信者を増やそうとする。権力の存在を信じる人間が増えれば増えるほど、その力が強くなるからである。まさに狂気の沙汰である。

言うまでもないことだが、これはキリスト教と同じ現象である。

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