二元論の歴史

1

ヨーロッパ人は世界を二つに分ける。文明と野蛮である。そして、文明人には野蛮人を支配する権利がある、と考えた。それが植民地の起源である。

ここに、二元論という問題がある。善と悪、善神と悪神、天使と悪魔、天国と地獄、文明と野蛮、資本家と労働者、白人と有色人種などなど。ヨーロッパ的な世界は二元論に彩られ、そこから逃れられなくなっている。この二元論という問題が、人類の歴史そのものを規定してきたのである。

我々はこの歴史を、アメリカから辿ってみることにしたい。彼らは世界を敵と味方に分け、西と東、悪の枢軸と善の同盟など、いまだに二元論によって世界を分類し、混乱をもたらし続けている。その起源はどこにあるのか。二元論はどのようにして生じるのだろうか。

2

アメリカに入植した人々は、西部開拓を進めてゆくなかで、マニフェスト・デスティニーというスローガンを掲げるようになった。それは、アメリカ大陸を開拓し、未開人に神の光を与えることが、入植者の使命なのだ、という宗教的情熱の表現であった。

しかし、そもそもどうしてアメリカ人は、マニフェスト・デスティニーなどという話を思いついたのか。そのはじまりを振り返ってみよう。


アメリカへの入植が始まったのは、コロンブスによる大陸発見の直後からであるが、それが本格化するのは17世紀のことである。はじめは、ヨーロッパに居場所がなくなった人々が、アメリカに流れ着いたのだろう。

旅の途中は、彼らの胸も不安でいっぱいだったが、いざ辿り着いてみると、けっこう快適だった。彼らは畑を耕したり、牛を飼ったりして、新しい生活を始めた。そうこうするうちに、うわさを聞きつけた人々が、続々アメリカに押し寄せてきた。

はじめは上手くいった。だが、やがてインディアンと揉め事が起きるようになった。当然である。もともとインディアンが暮らしていたところに、ヨーロッパから人が押し寄せたので、彼らの生活の邪魔になった。

先に手を出したのがどちらだったかは、分からない。おそらくインディアンだろう。なぜなら、インディアンはもともとアメリカに住んでいたので、よそ者を追い払う権利があるからである。しかし、結果は惨敗だった。これもまた当然である。

インディアンは弓矢と斧しか持っていなかったのに、アメリカ人は銃火器を持っていたからである。戦いが始まってみると、意外と簡単にインディアンを殺せることに、アメリカ人は気づいた。それでつい、やりすぎてしまった。インディアンを皆殺しにしてしまったのである。

その結果に、アメリカ人は恐れおののいた。人を殺してしまった、と。

罪の意識にさいなまれる彼らの上に、やがて神の啓示が降りてきた。神は言った、安心しなさい。インディアンは人間ではない。彼らは神への信仰を持っていないので、殺しても構わない。むしろ、彼らを殺し、神の領土を広げることが、あなたがたの使命なのだ、と。その言葉を聞いて、彼らは安堵した。罪の意識はきれいさっぱり押し流されてしまった。

それからはすべてが順調だった。彼らはインディアンを殺し、農場を作り、それを柵で囲って、ベッドの脇には猟銃を立てかけておいた。それで毎晩、安心して眠れた。インディアンを殺しても、もう何も感じなくなっていた。


これがアメリカの起源である。神の啓示を聞いたときに、彼らは人間であることをやめた。このような悲劇が二度と起きないようにするために、我々は、地上からキリスト教を撲滅しなければならない。

3

記憶に新しいことだが、2020年の正月に、イランのソレイマニ司令官が、米軍の無人攻撃機によって殺害された。

事の始まりは、前年の12月に、イスラム系武装組織がイラクの米軍基地を攻撃し、軍属一人が死亡したことだ。その報復として、米軍は武装組織の拠点を空爆、それに対する再報復として、バグダッドのアメリカ大使館がデモ隊に襲撃された。これに怒ったアメリカ側が、ソレイマニを殺害した。

ソレイマニは少将なので、軍属一人の命とは釣り合わない。この点で、米軍の攻撃はやりすぎだと言える。しかし、ソレイマニの率いる部隊が、テロ活動に従事していたことも事実である。

そもそも、イランには軍隊が二つある。イラン国軍と、革命防衛隊である。前者はイランという国を守るためにあるが、後者はイスラム革命を輸出するためにある。ソレイマニは、革命防衛隊の司令官の一人だった。その点で、普通の軍人とは異なる立場だったと言ってよい。

政治思想としてのイスラムは、共産主義と似ている。共産主義者は、共産革命を世界に押し広めることが自分たちの使命であり、人類にとっての真の幸福なのだ、と考えている。

イスラム原理主義者の考えも、これと同じである。イスラムの教えを受け入れない人々には、まともな知性がない。だから、彼らをイスラムに従わせることが、彼ら自身の幸福につながる。そのために必要ならば、暴力も厭わない。そう考えている。それが彼らのマニフェスト・デスティニーなのである。


すべて同じである。アメリカの福音主義も、ロシアの共産主義も、イスラム原理主義も、みな同じことを言う。彼らは神の啓示を受けたのである。だから、人を殺しても許される。

しかし、理性が歪んでいるのは彼らの方である。神などいない。存在しないものを根拠として幸福が実現されると考えているのだから、彼らが間違っていることは明らかである。存在しない神が殺人を許したからといって、それが正当化されるわけがない。ただの妄言にすぎない。ヨーロッパから追い出され、インディアンに脅かされ、そのうえ罪の意識にさいなまれていた哀れなアメリカ人たちに、神の啓示がもたらされたように、それと同じように、ムスリムや労働者のもとにも啓示が下されたのである。

お前たちは哀れだ。白人に搾取され、資本家に搾取され、あらゆる辛苦を味わった。だから、可哀そうなお前たちがこれから何をしようと、私はそれを許そう。もう十分に苦しんだのだから、と。

それは幻聴である。だが、幻聴でもよかった。彼らにはよりどころが必要だったのである。このようにして、彼らは人間をやめた。自らの妄想の奴隷となったのである。

共産主義においては、貨幣が、神の代わりに絶対者の役割を果たしている。人間はみな貨幣に、あるいは、貨幣というものに象徴される自らの欲望には、逆らうことができない。その認識が、共産主義の出発点である。

それは同時に、資本主義の出発点でもある。資本主義者は、貨幣という神に従順に従おうとする。彼らは天使である。一方、共産主義者は、貨幣という神に逆らい、神を滅ぼそうとする。これは悪魔である。この天使と悪魔の争いが、天使の勝利によって終わり、永遠の平和が訪れる、というストーリーが、資本主義者の天命である。これは千年王国の焼き直しにすぎない。また、これを裏返しにすると、共産主義者の天命となる。

4

これらすべての思想の背後にあるのは、善と悪の二元論である。そのもっとも古い形は、ゾロアスター教の神話に現れている。

私はつねづね不思議に思うのだが、仏教は、中央アジアを通って中国や日本にまで伝わった。また、インド洋沿いに東南アジアにも伝わった。しかし、イランよりも西には、仏教は全く伝わらなかった。それはなぜなのか。

ゾロアスター教の発祥の地はイランである。イランとインドの文化には深いつながりが見られ、一部の神話は共通していると言われている。

インドにバラモン教をもたらした人々は、アーリア人と呼ばれる。彼らの一部はイランに住み着き、他の一部はインドに住み着いた。彼らは自分たちをバラモンと呼び、先住民たちをスードラと呼んで蔑んだ。それがカースト制の起源であり、インド的な二元論の芽生えだったと考えられる。

バラモンは尊く、スードラは卑しい。バラモンは優れていて、スードラは劣っている。バラモンは善で、スードラは悪である。このような二元論が、古代インドを覆いつくしていた。バラモンは、スードラに逆襲されるかもしれないという恐怖におびえ、スードラは、バラモンの専制に苦しんでいた。

そこに仏陀が現われた。彼は人々の無知を明らかにし、すべての二元論を滅ぼした。彼は正しいものを正しいと言い、間違ったものを間違いと言った。それだけで、すべての迷妄は解きほぐされた。

彼の智慧はインドを覆い、その恵みは遠く日本にまで及んだ。だがそれは、まだ世界のすべてに行き渡ったわけではない。二元論の力が強い地域には、彼の智慧はなかなか浸透しなかった。現代における我々の使命は、仏陀の智慧を全ての世界にもたらすことである。休みなく争いを続ける修羅の世界に、智慧の光をもたらすことである。


人類社会に破壊と混沌をもたらした二元論の歴史は、仏陀の出現によって終わりを迎えた。しかし、まだそれに気づいていない人々がいる。イランよりも西に住む人々は、仏陀の知恵を知らず、それゆえに二元論的な妄想にとらわれ続けている。

その妄想が現在も世界を破壊し、人々に不幸をもたらしている。キリスト教は妄想である。イスラム教は妄想である。共産主義は妄想である。民主主義は妄想である。霊魂の存在は妄想である。自由意志の存在は妄想である。これらの妄想が二元論を生み出し、二元論がこれらの妄想を強化する。無限に続く無明の闇がここにある。

初期の仏教では、六道輪廻の説は確立されていなかった。おそらく、仏教の教義が発達する中で、二元論を信じる人々をどう定義するか、という問題が持ち上がったのだろう。彼らは伝統的な外道でもないし、三悪趣でもない。しかし様々な妄想に取りつかれ、争いが絶えることがない。それを阿修羅と呼ぶことにしたのだと思う。阿修羅は、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダと語源が同じだとされている。

5

ここで、次のように考える人がいるかもしれない。インドにおいても、二元論は生き残っている。なぜならば、バラモン教もカースト制も存在しているからだ、と。

その意見は部分的に正しく、部分的に間違いである。間違いというのは、現代のインドにはバラモン教は存在しない、ということである。ヒンドゥー教はバラモン教とは異なる。バラモン教の影響を受けてはいるが、そのものではない。おそらく、インドに残存する習俗と、仏の教えが入り混じったものがヒンドゥー教である。

ヒンドゥー教は、その成立の過程において仏教の影響を強く受けている。基本的に、インドの文化はすべて、仏教抜きには理解できないものである。ゆえに、現在のインドも、イラン以西の二元論文化とは本質的に異なるものだと考えられる。

ヒンドゥー教がインドに固有のものだというのは事実である。なぜならば、仏教もインドに固有のものだからである。また、インドラやアスラなどの神々の位置づけの変遷も、仏教と関連付けて理解することができると思う。

一方で、カースト制が残存していることも事実である。また、仏教そのものがインドにおいて失われたことも事実である。これに対して、私なりの解釈を与えるならば、イスラム教の東漸やイギリス支配による西洋文化の流入が、インドの二元論を再び活性化させたのだと思われる。

したがって、我々はインドにおいて仏教を復活させねばならない。人間の知恵と無知との戦いには終わりがない。我々は、知恵によって無知に対抗しなければならない。

6

和を以て貴しとなす、というときの和は、調和ということではない。争いがない、ということである。

調和という観念の起源は、ピタゴラス教団に遡る。彼らは、宇宙の原理は調和であると考えた。たとえば、生は調和である。死は調和が失われた状態である。健康は調和である。病気は調和が失われた状態である。このように、すべてのものを調和と不調和によって説明することが、彼らの思想であった。これは一種の二元論である。

このような二元論を仏陀は否定した。なぜならば、二元論は争いを生むからである。それは世界を善と悪に分ける。優れたものと劣ったものに分ける。そうすると、そこに恨みや妬みが生じ、争いが生まれる。そこに仏陀が現われて、すべての主張を否定した。二元論が誤りであることが明らかとなったので、もはや議論をする必要はなくなり、争いは消滅した。それが和である。

和とは、正しい道を明らかにすることであり、それによって議論の余地をなくし、争いをなくすことである。

これは、ヘーゲルの弁証法に近いかもしれない。ヘーゲルによれば、正命題と反命題を止揚することで、それらを統合した、より高次の合命題が得られる。常断、有無の二辺を捨てて中道に至る、という仏教の考え方は、弁証法の基本であるといってもよい。つまり、ヘーゲルは仏教を吸収し(あるいは曲解し)、それを自己流に表現し直したわけである。ヨーロッパの近代思想は、彼らが発見したアジアの思想から、大きな影響を受けていると考えられる。

しかしながら、ヘーゲルの議論には、仏典に見られるような明晰さや論理性は全くない。むやみに長ったらしく、何が言いたいのか理解しにくい。彼は、仏陀があっさりと否定したアリストテレス的な哲学を、その思索の基礎としていたために、仏教的な論理を正しく把握することができなかった。そのせいで、ほとんど奇形といってもよい、不思議な学問が出来上がってしまった。ヨーロッパの学問は、どれもこれも本当に奇妙なものばかりである。

7

石原莞爾がドイツに留学したとき、里見岸雄が同行していた。里見は田中智学の息子であり、日蓮宗の信仰をヨーロッパに広めようと考えていた。

彼ははじめ、法華経をドイツ語に翻訳することを試みたが、それは挫折した。次に、国柱会の思想を要約した論文を作ることにして、それは成功した。彼はそれをドイツや各国の知識人に配ったが、大いに反響があったそうである。この仕事には石原も参加したらしい。

当時のヨーロッパの人々からすれば、日本の思想や宗教の話は、目新しく、興味深いものだっただろう。つまり、日本の思想はヨーロッパで需要があり、彼らは貪欲にそれを吸収したわけである。その影響が、ヨーロッパの近代思想に現れていないわけがない。

我々は、ヨーロッパが日本に与えた影響ばかりを語りがちであるが、実際には、それと同じだけの影響を、日本はヨーロッパに与えてきたはずである。しかし、その影響の跡を追いかけることは非常に難しい。

日本人はあけっぴろげなので、ヨーロッパが日本に与えた影響を跡づけることは簡単である。一方で、西洋人はプライバシーを大事にするので、彼らが誰からどんな影響を受けてきたのか、調べることは難しい。彼らは、ヨーロッパの思想はすべてヨーロッパに固有のものだ、と主張するが、そんなはずはない。ヨーロッパの思想の半分は、日本や東洋からの借り物である。

もちろんこれは私の思い込みであって、はっきりした証拠はないが、こういう方向の研究もやってみるべきだと思う。

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