恥の文化

東アジアの国際秩序

沖縄の米軍基地を擁護する人々は、米軍がいなくなれば、日本を守ることができなくなる、と考えている。しかし、米軍がいなくなったところで、誰が日本に攻めてくるのだろうか。実際のところは、アメリカが日本を侵略したのであって、それ以外の国を心配する必要はない。

アメリカ軍がいなくなっても、中国は日本に攻めてこないだろう。そんなことをする必要がないからである。日本と中国はいまやビジネスパートナーであり、商売によって互いに利益を得ている。それなのに、戦争を始めることで誰が得をするのか。中国人は、自分が損をするようなことは決してしない。

そもそも、暴力によって他人のものを奪い取ることは、悪党のすることである。君子のすることではない。東アジアは昔から君子の治める土地である。もしも中国が、沖縄をかすめ取る姿勢を見せたならば、我々はこう言って彼らをたしなめればよい。中国人にはアジアを治める徳がない、と。

もちろん、我々も無防備でよいわけではない。あまりにも油断していれば、中国側がおかしな考えを抱くこともあるかもしれない。ゆえに、きちんと腋は閉めておかねばならない。だからといって、軍備を強化しすぎることは、不要な摩擦を増やすことになり、非効率である。適当な落としどころを探す必要はあるだろう。だが、基本的に、暴力によって問題を解決することは野蛮なことである。知恵のある人間のすることではない。

徳と恥

東アジアの秩序は徳によって維持されてきた。これを儒教の価値観だと言う人もいるが、儒教などという宗教は存在しない。徳は普遍的な概念である。たとえば、暴力によって他人を従わせることは、不徳である。他人に対する思いやりを持つことは、徳である。ここにはいかなる宗教的な意味合いもなく、徳という言葉の普遍的な意味が明らかにされているだけである。

徳に基づく秩序が本来の東アジアの姿であり、これは恥の文化として広く共有されている。恥とは、自分が徳を失ったことを他人に指摘されることである。あるいは、それを認識したときに生じる感情である。お前は徳を失った、と言われることは恥ずかしいことであり、そう言われたならば、その人は必ず反論して、自分の正義を明らかにしなければならない。そうすることによって、その人自身の行いが正されるのである。

上に挙げた例でいえば、中国が沖縄を侵略しようとしたとき、その事が起きる前に、それは徳のある人のすることではない、と公的な場で中国政府をたしなめたとしよう。もしも中国側にそのつもりがあったとしても、彼は自分の面子を守るために、そんなことは考えていない、と言わざるをえない。そして彼は、自分の言葉を守るために、侵略を取り止めざるをえなくなる。ここで、もしも彼が自分の言葉に背いたならば、彼は嘘をつくことで徳を失ったことになる。それは恥の上塗りである。そういう人物は、統治者にふさわしくないという評価を下されることになるだろう。

恥の文化は日本や韓国、中国など東アジアに普遍的に存在しており、おそらくベトナムにもある。植民地時代の経験によって漢字は忘れられてしまったようだが、ベトナムはもともと漢字文化圏であり、それは恥の文化と深いかかわりを持っている。東アジアに国際秩序を確立するためには、漢字文化の再興が不可欠である。


多くの日本人は、中国に対してある種の違和感を覚えている。心理的な距離があるというか、あまり親しみを感じていない。それはなぜかと考えてみると、文字が一つの原因になっているのではないか。

中国人の使う簡体字は、漢字のようで漢字ではない。とても奇妙な記号で、読めそうで読めないのが非常にもどかしい。もしもあれが普通の漢字であれば、日本人にも、中国人の書いた文章がなんとなく理解できるのではないかと思う。あるいは、理解はできなくとも、親しみは感じられるはずである。

個人的には、簡体字は漢字に対する冒涜だと思う。ちょっと過激だが、あれをやめさせるためなら、中国と戦争をしても構わないと感じている。

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