社会保障と日本の財政

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社会保障費が日本の財政を圧迫している。このままでは、日本は破産してしまうだろう。

真っ先に削るべきは医療保険であろう。高齢者の医療保障には生産性がない。高齢者の医療費は十割負担にするべきである。

たとえば、線路に飛び込んで、電車にひかれて死のうとする人は、鉄道会社にも迷惑をかけるし、利用客にも迷惑をかける。いろんな人に迷惑をかけて死ぬことになる。今の高齢者の死に方は、それと同じである。死ぬ間際に花火のように税金を使って死んでゆく。いくら治療に金をかけても、死ぬものは死ぬのである。それなのに、たった一年二年寿命を延ばすためだけに、どれだけの金を使うつもりか。人に迷惑をかける前に、さっさと死んだほうがましではないか。

そうして医療費として使われた我々の税金は、全て医者の懐に収まることになる。国家の財政を傾けて、医者に貢いでいるようなものである。いったい何のための社会保障か。医者ほどやくざな連中は他にいない。

高齢者が通うべきは、病院ではなくお寺である。念仏を唱えて、あらかじめ死ぬ準備をしておかねばならない。坊さんの話を聞いて、浄土に思いを凝らしていれば、安らかに死ねるだろう。そのほうがお互いに幸せではないか。

医者には、死の苦しみを取り除くことはできない。彼らにできるのは、それを長引かせることだけである。仏の知恵だけが、人間の苦しみを取り除くことができる。

2

さらに、お金が余っている老人は、寺に寄進するべきである。それは立派な行いである。

坊主というものは、仕事をしない。彼らは、人から与えられるものだけで生きている。働かないのではなく、働いてはいけないのである。それが、欲望を持たない生き方を実践するための手段である。

だから、安心してお寺に寄付をするべきである。坊主には欲望がないので、貰ったものを私利私欲のために使うことはない。自分の生活に必要なもの以外は、すべて社会のために使われるだろう。ゆえに、お寺への寄付は、純粋な善行である。

寺とは、一種の金融機関である。それは、贈与のみによって機能する、お金の循環システムである。寺に落とされた金は、すべて公共の利益のために使われる。ゆえに、寺に金を落とせば落とすほど、この社会は豊かになる。どんな人間であっても、出家さえすれば生きてゆける社会というのは、本当に豊かな社会と言えるのではないか。

逆にいえば、坊主が飢えて死ぬような社会は、情けない社会である。誰もが自分の金を手放そうとせず、他者に対する思いやりが全くない社会では、坊主は飢えて死ぬしかない。社会の一部には金が溢れているのに、坊主が苦しんでいるという状況は、恥である。

坊主には私欲がない。私心がない。そのような人間が見捨てられ、見殺しにされる社会は、本当に貧しい社会である。そんな社会は滅びるに決まっている。

自分が貯め込んだ金を、自分が生き永らえるためだけに使い、死んでゆくというのは、あまりにも情けないことである。それよりも、自分の金を他人のために使い、死んでゆくほうが、はるかに清々しく死ねるだろう。最後くらいは、人の役に立つことをしてもよいのではないか。

3

人の命はフローである。出ていくものもあれば、入ってくるものもある。お金もこれと同じで、入ってくるものもあれば、出ていくものもある。お金が大事だからといって、使わないで溜め込んだままでは、価値がない。それを使うことで、価値が生まれるのである。だから、それをどのように使うか、ということが重要である。

人の命も、大事だからといって、使わなかったら意味がない。それをどのように使うか、ということが肝心である。お金そのものに価値がないように、人の命にも価値はない。それを使うことで、価値が生まれるのである。

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