学校教育の問題点

1

いじめの問題はずいぶん深刻なものになっているのだな、と『聲の形』を見て思った。この映画をちらちら見ていて印象に残ったのは、教師の存在感の薄さである。学校における子供同士のいじめに、教師が介入する余地がない、ということが分かりやすく描かれている。これは当然、近年話題になることが多い、教師の超過労働の問題とも関わりがある。現在の学校制度のもとで、教師は部外者になりつつある。

こういう言い方をすると反発する人も多いかもしれないが、このような教育にまつわる問題の一番の原因は、女性の発言権が増したことである。つまり、父親よりも母親の存在の方が大きくなってしまった結果である。それは、親が子供を保護するということが、当たり前になってしまったということである。

しかし、本来教育とは、子供が親の保護を離れることでしかなされえないものである。親よりも教師の権威が優越するような環境でなければ、価値のある教育を行うことはできない。なぜならば、親は子供をかばうからである。間違ったことをする子供を親がかばうようになれば、その間違いを正すこともできなくなる。それこそが本当の教育であり、社会や理科の知識を教えるよりも価値のあるものなのだが、今はそういった教育ができなくなっている。

その原因は、自由主義が徹底されていることである。自由主義の本質は、自分さえよければよい、という信念である。

たとえば最近の日本では、自然災害が増えている。災害にあった人々の復興を手伝うためにボランティアが活躍しているが、時々ニュースで、ボランティアの手が足りない、と報道されることがある。これに対して、ボランティアは自分の意志でしていることだから、「足りない」という表現はおかしいのではないか、という意見があった。これこそが自由主義の本質である。困っている人を助けるのも助けないのも自分の自由だ、と彼は言っているのである。

これは人間の言葉ではない。困っている人を助けないのも自由だ、という言葉には、人間の持つべき倫理が完全に欠如している。これが自由主義の終着点であり、道徳の完全な破壊である。このような言葉を語る人は、自分のことしか考えていない。自分さえよければそれでよい、という考えが彼の行動を決定しているのである。

では、どうしてこのような人間が出てきてしまうのか。その原因は当然、教育の中にある。自分さえよければよい、という考えは、自分の命が一番大事だ、という考えと同一である。このような考えを子供に植え付けるのは、母親の仕事である。もちろん、それは必要なことである。自分の命を守ることを子供に教えるということは、動物にとって最も基本的な教育である。しかしそれは基本的であるがゆえに、人間にとっては不十分なものである。

上述の映画では、主人公が自殺しようとしたことを、母親が責める場面がある。自分の命を大事にしなさい、という教育である。だが、このような教育は、三歳児に行うべきものである。成長した子供に言うべきことではない。本当の教育は、自分のことだけでなく、他人のことも考えられるようになりなさい、というものでなければならない。このような教育は、親にはできない。なぜなら親にとっては、自分の子供が一番大事だからである。ゆえに、子供が一人前の人間に育つためには、一度親の保護から抜け出す必要がある。

しかし、現代社会の通念の下では、子供は親の保護から脱することができない。親子の関係は何よりも強いものであり、その関係の下では、子供の意志が無視されることすらある。そしてこれは、自由主義の問題と直結しているのである。

何人も、他人が自己の利益を求めることを妨害してはならない。これが自由主義の理念である。そして子供とは、親にとって一番の利益である。親子が協力して家族の利益を守ることによって、個々人が利益を追求するよりも多くの利益を得ることができる。そのため、親は子供を囲い込み、子供が自分の利益のために、あるいは自分たちの利益のために行動するように教育する。それが自由主義における教育の意味である。教育とは、自己の利益を最大化するために為されるべきものである。こういった理念の下では、まともな教育はできない。

少なくとも学校においては、教師の権威は絶対的なものでなければならない。そこに生徒個人の利益や、あるいは生徒の家庭の利益が介入してはならない。親は教師のすることに口出しするべきではない。親は教師を尊重しなければならない。そうでなければ、まともな教育はできないし、いじめをなくすこともできない。

もちろんこれは全体主義ではない。公共の利益が個人の利益に優先するわけではない。そうではなく、自分の利益と共に、他人の利益も考えるべきだ、ということである。それを両立させる道を探す努力を怠ってはならない、ということが本来の教育である。子供は天使のように純粋だと考える人もいるが、同時に利己的でもある。その利己心を叩き潰してやるのが教育である。教育とは、子供の心を否定することである。

2

ここで再び男女平等論について議論したい。繰り返しになるが、この話題は何度繰り返しても十分ではない。人々の誤解が解けるまで、根気強く続ける必要があると考えている。

そもそも、男女が平等であるという主張は、何を意味しているのだろうか。一目でわかる通り、男女は平等ではない。体のつくりも違うし、考え方や感じ方も違う。それがどのような点において平等だと言えるのか、誰も説明しようとしない。

この問題に関しては二つの論点が混同されており、その混同によって、この主張を否定することが難しくなっている。二つの論点とは、男女は実際に平等であるという主張と、男女は平等であるべきだ、という主張である。一般に平等論者は、前者を否定されると後者に乗り換え、後者を否定されると前者に乗り換える傾向がある。まずこの二つの論点を切り分けないと、この問題について議論することはできない。

さて、男女が実際に平等であるという主張に根拠がないことは、以前の記事で説明した。男と女は見た目も中身も違う。それは実際に付き合ってみればすぐに分かることである。男友達と遊ぶときと女友達と遊ぶときとで、対応を全く変えない人間がいるだろうか。男女の行動パターンや好みの傾向は互いに異なり、それは両者の思考パターンが異なることを意味している。ゆえに、心身両面において男女には違いがあると言える。では、いったいどこが平等なのか。

そもそも平等とは何か。平等という言葉は何を意味しているのか。思うに平等ということは、イコールということである。つまり、計測する対象を、ある単位の何倍かという基準で数値化し、その数値が一致した場合に平等と言われるのである。ゆえに、平等という言葉は、対象の数値化を前提としたものである。しかしながら、人間やその生を数値化することはできない。したがって、人間に対して平等という言葉を使うこと自体が誤りだと言える。

さて、ここで第二の論点、男女は平等であるべきだ、という点について考えてみよう。上に述べたような意味で平等という言葉を理解するならば、この主張は、男女を数字で計った場合に、その値が一致するように努力すべきだ、ということになる。たとえば、男女の収入が一致すべきだとか、内閣における男女比が一対一になるようにすべきだとか、そういったことを意味しているわけである。しかし、そんなことに何の価値があるのか。人それぞれ適性というものがあるのだから、その人の性格や能力にあった仕事に就けばよいだけではないか。どうしてあらゆる人間を平等に扱わねばならないのか。

ここで再び、平等という言葉の意味について考える必要がある。この言葉は、自由主義という思想と深く結びついている。それはまた人権という考えや、民主主義、市民社会といった思想とも関係がある。その根底にあるのは魂の平等である。人間には、表面に現れる身体的特徴や心理的傾向とは全く異なる、その人自身の本質、つまり魂というものが存在する、という信念が、平等主義の根源である。そこから、その魂において人間は平等なのだ、という結論が導かれる。これはまた自由意志という形で表現されることもあるし、人権という言葉で表出されることもあるが、すべて同じことを意味している。魂の存在である。

ヨーロッパ近代思想はすべて、この魂の存在という一点に立脚している。自由主義や民主主義、人権思想もすべて、魂の存在を主張する一種の迷信にすぎない。そしてそれ以外に、平等思想の根拠はありえないのである。しかし、魂など存在しない。それが存在するという証拠はどこにもない。我々の心の中を探してみても、体の中を探してみても、どこにも魂など存在しない。

ゆえに平等思想は単なる迷信であり、事実と相違する思想だと言える。つまり間違いである。これで、平等主義が誤りであることの証明は終わった。男女は平等ではないし、平等であるべきだという主張も成り立たない。すべて誤りであり、迷信である。

しかしこれでは不十分かもしれないので、もう少し議論を続けよう。ある人は言うだろう、人間の平等はアプリオリな前提であって、これを否定してしまえば市民社会は成り立たなくなるし、文化的な生活を送ることも不可能になってしまうだろう、と。この主張が誤りであることを指摘することはたやすい。なぜならば、この主張は一種の傲慢に基づいているからである。それは、自分たちの生きているこの社会こそが最も優れたものであり、過去のどんな社会よりも良いものである、という思い込みである。そして、この思い込みを証明することはできない。

ある種の人々は、数字によってこれを証明しようとするだろう。過去のどんな社会よりも、現在の社会のほうが人口が多い、あるいは死亡率が低い、あるいはGDPが多い、などなど、様々な数字を示して、自分たちの主張を正当化しようとするだろう。しかしすでに述べた通り、人間の価値や、その人生の価値を数字で量ることはできない。ゆえに、人間の集合としての社会の価値も数字で量ることはできない。したがって、そのような証明はすべて無意味である。現在の社会を計測する数値が、過去のどんな社会よりも大きいからといって、そのことは、現在のほうが優れていることを意味するわけではない。

人間の平等に立脚しない社会も、十分に文化的で価値のあるものでありうる。それは人類の歴史を見れば明らかであろう。私には、現代の日本社会は、江戸時代の社会よりも優れているとは思われない。そしてこの私の思いを、何らかの根拠に基づいて否定することはできないのである。

この問題については「想定問答集」「男女平等とは何か」等でも議論している。参照されたい。

3

湯浅治久氏の『戦国仏教』によれば、中世の奴隷制を支えていたのは「重代相伝の論理」だったという。

日本の中世、つまり鎌倉時代や室町時代は、人身売買が横行した時代であり、年貢を払えなかったり、飢饉で食い詰めた百姓の多くが奴隷の身分に転落していった。しかし、奴隷が解放される道もなかったわけではない。たとえば、年貢を払えずに奴隷となった百姓は、未払いの年貢とその利子さえ返済すれば、解放されてもよいはずである。

だが実際には、主人は別の論理を用いて奴隷の開放を拒絶していた。その百姓が奴隷として仕えていた間、彼の生活を支えるために多額の費用と手間がかかった。その生活費用を返済しなければ、奴隷を開放することはできない、という理屈である。これを「重代相伝の論理」という。このような事情で、奴隷の開放は一向に進まなかった。

その後の百姓たちがどうなったかは同書を読んでいただくことにして、いま私が指摘したいのは、これと同様の奴隷制が現代社会にも存在しているという事実である。

重代相伝の論理は、現代では親子間に適用されている。親は子を養育するために多額の費用を払っているのだから、子はその分を親に返さねばならない。そのような論理によって、子は親に縛られており、それが現代の家族制度を支えているのである。自由主義社会における親と子の関係は、中世における主人と奴隷の関係と全く同じである。親子の愛も、このような搾取を正当化するための論理にすぎない。

子は親の利益のために存在するわけではない。親が子を養育することは、たしかに私的な活動の一部ではあるが、同時に公共性を持った活動であると考えられねばならない。

公の領域と私の領域は厳密に区別されうるものではないし、また区別するべきでもない。私の財産は私のためにのみ存在するわけではない。人は自分の財産を、自分の楽しみのために使うこともできるし、同時にその財産を、多くの人の利益のために使うこともできる。財産を有する人間には、その財産をどのように使うかということに関して、大いに責任があると言わねばならない。

タイトルとURLをコピーしました