運について

1

 ある出来事の結果として、何が起きるか分からない、予想ができない、というときに、我々は運という言葉を使う。
 たとえばコインを投げたときに、裏が出るか表が出るか、あらかじめ予想することはできない。そこで、表が出るに違いない、と思い込んでいると、いざ裏が出たときに困るわけである。そういう人は、運に翻弄されていると言える。
 しかし、表が出るか裏が出るか分からないのであれば、表が出たときにはこうする、裏が出たときにはこうする、というように、あらかじめそれぞれの場合について準備をしておけばよい。そうすれば、どちらが出ても困ることはない。こういう人は、運に翻弄されることがない。
 前者のような思考パターンの人は、自分の人生は運によって決められている、と感じる。後者は、自分の人生は自分で決められる、と感じる。

2

 欧米人はだいたい、前者のような思考しかできない。その理由はおそらく、彼らの宗教と関係しているはずである。
 彼らは、人間に知りえないことであっても、その結果はあらかじめ決まっているはずだ、と考える。そして、それら未知のことをも含めて、すべてを知るものとして、神の存在を仮定する。それが決定論と呼ばれる思想である。また、どうしてかは分からないが、彼らはそれを因果律と混同している。

 こうした思考の裏にあるのは、西洋人が、自己の存在と客観的な世界とを区別しきれていない、という事情だろう。彼らは、自分自身の心の中で起きる心理的な事象と、客観的な世界で生起する物理現象とを、明確に区別できていない。そのため、客観的な事象までをも、ある種の心理現象として理解しようとするのである。つまり、現実の世界で起きる事象は全て、神という存在の心の中で起きる心理現象である、という風に、物理現象を解釈しなおすわけである。
 それが彼ら独特の一神教を生み、また決定論を生む。決定論を採用する場合、未来に何が起きるかは現在の時点において決まっているので、それが予想できないということは、自分自身の落ち度である、ということになる。

 このあたりの思考プロセスは、なにか靄がかかっているようで非常に解明しにくいのだが、おおよそこのようなことだと思う。彼らは、自分はあらかじめそれを知っていなければならない、と考える。そのため、表も裏もどちらも起こりうる、と考えることに拒否感を抱く。アメリカ風の言い方をすれば、フェアではない、ということは、こういう感覚なのではないだろうか。
 それは、神をだます、という感覚に近い。あるいは、神を信用しない、と言ったほうが正確だろうか。神様が、あらかじめどちらかに決めてくださっているのに、その賭けに乗らないのは不信心だ、ということである。正確な表現は難しいのだが、おそらくこういう感じではないか。
 神の全能性は、明らかに、彼らの全能感の反映である。フェアであるということは、相手の全能性を認めるということであり、あるいは、何らかの全能者が存在することを信じるということであろう。もしくは、自分自身が全能でありうるように努力する、ということでもあろうか。そしてその全能性とは、彼の内部に生じる心理現象が、彼の外で起きる物理的な事象と完全に一致する、ということを意味している。また、神との契約ということも、おそらく同じことを意味しているはずである。

 西洋人の思考パターンは非常に不合理かつ曖昧なので、彼らの思考の順序を理解することは簡単ではない。しかし、西洋人を教育するという目的のためには、これは不可欠の仕事である。

3

 人間は自然の一部であり、それ自体が一つの物理現象である。心理的な現象は、一種の物理過程として理解されうるし、また物理的な現象も、それを認識する精神の観点から見れば、一種の心理現象として理解されうる。しかし基本的には、これらは別のものであって、同一視されるべきではない。
 このような観点、つまり、人間の精神は一種の物理現象である、と観じることを諸法無我と呼ぶ。しかし、人間の素朴な認識においては、このような理解はありえない。我々がそれを知るのは、仏の法を通してであって、仏を知らない人々には知りようがない。

 キリスト教等の一神教は、やはりそのような無知から生じるものであり、広い意味でのシャーマニズムであると言える。そして、近代科学や西洋思想のほとんど全てもここに分類される。私が知る数少ない例外は、カントの超越論哲学とパースの記号論である。これらの思想には、諸法無我の芽生えが見て取れる。

4

 偶像崇拝の禁止は、一神教の顕著な特徴である。これまでに述べてきたことからすれば、神とは自分自身であって、自分の精神を物理的な世界に反映させる原理である。そうすると、神の像を作るということは、自分自身の像を作る、ということと等価である。
 彼らはそこに、何らかの矛盾を感じ取る。ある意味では、一神教そのものの不合理を、偶像というものの中に見出してしまうわけである。私は神であり、私の心はこの世界そのものである。であるならば、神の姿が私の目に映るはずがない。
 神の像は、私=神という等式が、実際には成立しえないことを明らかにしてしまう。そのために、彼らはそれを忌み嫌うのである。H・P・ラヴクラフトの『アウトサイダー』という小説は、この辺りの心情を巧みに表現しているのではないだろうか。

5

 また、とくにイスラム教に顕著なのは、言葉への執着である。それは、彼らがアリストテレスの影響を強く受けているせいでもあろう。彼らは、客観的な存在と名辞とを、ほとんど同一視している。言葉と存在の区別がついていない。
 これまでに述べたことからすれば、一神教における世界の理解は、人間の精神の理解を反映していることになる。つまり、この世界が言葉として理解されているということは、彼らが、人間の精神を言葉として理解している、ということを意味している。そして、人間の精神が言葉によって構成されているという考えは、おそらくアリストテレスの論理学の影響であろう。
 それ自体は間違いではない。人間の精神に言語的な構造があるという考えには、ある程度の合理性があり、おおむね正しいだろう。しかし、それを世界の構造と同一視することは間違いである。

 たしかに、我々の精神と客観的な世界との間には、何らかの対応関係が存在する。しかしそのことは、我々の精神は客観的な世界である、ということを意味するわけではない。精神と世界との間に対応関係があるからといって、必ずしも、それらが同一のものであるとは限らない。
 言語が精神を反映し、精神が世界を反映しているのだとしても、それらはそれぞれ別のものである。言葉は精神ではないし、精神は世界ではない。この区別に注意することは重要である。さもなければ、あなたも一神教の泥沼にはまり込んでしまうだろう。

タイトルとURLをコピーしました