記事紹介6:新しい封建制ヘ向けて

私は、この世界には封建制が必要だと考えています。それは、ドナルド・トランプの「壁」と同じものかもしれません。壁が必要な理由は、人の移動を制限するためです。なぜ移動の制限が必要かといえば、人口を制御するためです。

いま世界が直面しているあらゆる問題の根底には、人口の増加という現象があります。これは、ある意味では有史以来連綿と続いてきたものですが、近代以降はそれが著しく加速しています。

ある種の人々は、人口の増加を単純によいことだと考えています。それは、家族が増えることをよしとするような、原始的な人間の感情に基づいています。しかしながら、視点を家族から社会全体へと移してみると、人口の増加が、必ずしもよい結果をもたらさないことが分かります。

たとえば今、シリアからの難民の流出が問題になっています。どうしてシリアから大量の人間が出てくるのかといえば、そこで大量の人間が生活しているからです。百年前、二百年前には考えられなかったほど多くの人間が、一つの土地で暮らしています。そして、今でも人口の増加が続いている地域があります。それが社会の不安定化を招き、紛争の原因となり、難民という結果が生じます。

人口の増加をよしとする考えには、もう一つ原因があります。それは、富を数字で計ろうとする考え方です。たとえば、GDPによって国の力を計る、ということがいまだに行われています。その場合、人口が多いほどGDPは増えるので、人口の多い国ほど大きな力を持っていることになります。ゆえに、人口を増やすのはよいことだ、という結論に至ります。また、人口が多いほど、多くの軍人を養うことができ、強い軍隊を持つことができる、ゆえに人口を増やすのはよいことだ、という論理も成り立ちます。

しかし、人口が多いほど多くの物資が必要になります。住む家を作るために木を伐る必要があり、食物を作るために畑を作る必要があり、電気を作るために石油を燃やす必要があります。つまり、人口が多ければ多いほど、環境に対する負荷も大きくなります。それが環境破壊の最大の要因です。

また、資本家が富を蓄積するためには、人口は多い方がよい、ということも言えます。消費者が多ければ商品の販売数も増え、より多くの収益が見込めます。ゆえに、消費者が多ければ多いほど、資本家の富は増えます。したがって資本家にとっては、人口が増えることはよいことです。人口の増加によって、もともとあった格差はさらに広がります。

私は、格差をなくすべきだ、とは考えません。富を数字ではかり、それを比較することに意味があるとは思いません。しかし、より多くの人々が、より幸福に生きられる社会を目指すべきであると信じます。それを実現するためには、富を数字で計り、その大きさに満足するような人間は障害でしかありません。

格差の問題は、富の大小によって幸不幸が決まる、という考え方によって、さらに格差が拡大され、それが正当化されてしまう、という点にあります。つまり、自分が幸福になるために、他者から富を収奪することが正当化されるようになります。もちろん、それは直接的な収奪という形をとるわけではありません。むしろパイの奪い合いと言った方が、通りがよいでしょう。人が富の蓄積にあくせくするようになることが、社会全体を不幸にします。ゆえに、富の大小によって幸不幸が決まる、という考え方は有害であり、誤りです。

話が脱線しました。私が主張するのは、世界全体を単一の政府によって統治し、各地域間の人の移動を制限するような、封建制を実施することです。

どうして移動の制限が必要かといえば、人口に関する政策立案を可能にするためです。ここで移動というのは、旅行や仕事のための短期的な移動ではなく、住所の変更のような、生活する場所の移動のことです。ある政府が、人口に関する政策を立てて実行するためには、別の地域との人の往来はない方がよいでしょう。人の死亡や出産を把握するために戸籍の管理は基本ですが、将来的な人口動態を制御するためには、人の移動を管理する必要があると考えられます。

それは簡単に言えば、子供を産む自由を制限するということです。ある地域に定住する人間には、子供を産むことが許されます。しかし定住生活を送らない人間には、子供を産むことは許されません。基本的にはそれだけです。ただ、具体的にどんな方法が最善であるかは、これから検討する必要があります。

私が参考にしているのは江戸時代の封建制ですが、当時と現代では状況が違います。江戸時代は、農民が耕作地に定住し、基本的にその収穫物によって生活していました。そのような条件の下では、出産の制限は自然に機能していたと考えられます。余剰に生まれた子供には生きてゆく術がないので、そもそも出産数が制限されます。また、そのような子供には生産の手段がないので、自分の子供を作るだけの余裕がなくなります。これで、人口は自然に平衡状態に達します。非常に優れたシステムだと言えるでしょう。

しかし現代においては、生産地と生活の場所は一致しません。農作物は外国から運ばれてくるので、江戸時代と同じような封建制を実現することは不可能でしょう。では、どのような仕組みによって出生数を制御すればよいのか、考えなければなりません。

世界政府のもう一つの利点は、課税がしやすくなることです。いま世界で富の格差が広がっている原因の一つは、資本の移動が制限されていないことです。資本家は自分の財産を税率の低い国に移し、合法的に税金を逃れることができます。しかし、世界政府が税金を一元的に管理するようになれば、そのような税金逃れを防ぐことができます。これは、富の格差を解消することにつながるでしょう。

また、気候変動への対策は焦眉の課題です。クリーンエネルギーやエコ技術の開発は着々と進んでいますが、それだけでは不十分です。我々が第一にすべきことは、人口の増加を食い止め、適切な人口規模を維持することです。そのためには、世界全体を管理できる中央政府が必要になります。

経済活動はすでにグローバル化し、環境問題にも全地球的な対処が必要です。にもかかわらず、政治はまだグローバル化していません。これらの問題を解決するために、グローバルな政府が必要です。そのために日本人が果たすべき役割は、非常に大きなものになるでしょう。

この問題をよりよく理解するために、記事紹介2を参考にしてください。


自由主義者や情報産業にかかわる人々は、自分たちは土地に縛られていない、と感じています。世界中のあらゆる場所や人とつながることができるために、世界に境界がなくなったと思い込んでいます。

しかし、それは誤りです。なぜならば、人間はどこまでも物質的な存在だからです。彼らにも住む家があり、食べる物があります。家を作るための木や砂を採取する土地があり、それを建てる土地があります。また、彼らの食物を栽培する土地があり、農家がいます。

彼らはそれらのものを、交換可能なものだと考えています。自分はいまこの場所にいるが、別の場所にいることも可能なのだ、自分はいまこれを食べているが、別のものを食べることも可能なのだ、だから自分は場所に縛られていないのだ、と。しかしそれは、彼らが場所を転々と移動することからくる錯覚にすぎず、実際にはつねにどこかの場所に属し、どこかの場所に依存しています。広い意味で言えば、彼らはつねに地球に属しています。

それを意識しなくなることによって、彼らの行動は傲慢なものになります。彼らの自由な生活を支えている土地に思いが及ばなくなります。それこそが、環境破壊の根本的な原因だと言えるかもしれません。

場所に縛られなくなった、と感じている人々は、いま自分がいる場所に無関心になります。その建物がどのような地盤の上に立ち、どのような歴史の上に立っているのか、どのような植物に囲まれ、どのような動物に囲まれているのか、彼らは知らないし、知ろうともしません。その無関心が、まさに環境に対する無関心なのだということに、彼らは気付きません。そのような人々が環境保護を口にすることは、笑止千万です。まず自分の環境を知りなさい、と言わねばなりません。人間は自由であるという錯覚こそが、環境破壊の原因であることに気付かせねばなりません。

人間は自由ではありません。つねに環境に縛られています。ゆえに、人間は自由であるという思想は思い込みにすぎず、事実と相違しています。つまり誤りです。その誤りがどれだけの問題を引き起こし、どれだけの破壊をもたらしてきたのか、理解する必要があります。人間の自由が、人間社会そのものを破壊しつつあります。これを直視し、自由を捨てねばなりません。さもなければ、我々に未来はありません。

自由主義に関しては記事紹介1を参考にしてください。また世界政府への提言は、「アメリカの参戦」「多民族国家」「格差社会」「近代国家から世界政府へ」「日本の戦略」「万里の長城」「作戦計画試案」を参考にしてください。「精神の本質」第9節にも関連する内容があります。


自由主義の擁護者たちは、自由経済や資本主義社会が世界から貧困をなくし、人々の生活を改善させつつある、ということ根拠にして、彼らの主張を正当化します。しかし同時にそれは、ほぼ永続的な地球環境の変化をもたらしています。貧困に苦しむ人は少なくなったかもしれませんが、洪水の犠牲者は年々増加しています。猛暑による熱中症で命を落とす人も増えています。アフリカではバッタの大群が現れ、極地の氷は融け続けています。

長期的に見れば、資本主義経済が人類にもたらした利益は、環境破壊という不利益によって、完全に帳消しにされるでしょう。自由な経済活動こそが環境破壊の原因です。この現実から目を背けるべきではありません。

富の増加や貧困の減少は、必ずしも幸福を意味しません。慣れ親しんだ自然環境が破壊されることは、他の何によっても埋め合わせがきかないような苦痛をもたらします。自然とのつながりがなくなれば、人間の精神は活力を失います。そうなれば、魂を失ったゾンビと変わりがありません。もちろん、資本のゾンビとなった人々はそれでも構わないのでしょう。しかし我々には、ゾンビの面倒を見てやる義理はありません。彼らと心中するなど、まっぴらごめんです。

彼らはまた、将来の技術発展によって温暖化は解決可能だとか、環境破壊の不利益よりも自由主義経済の利益の方が大きい、などと主張するかもしれません。たしかに、その可能性もないとは言い切れません。しかし彼らが正しいという証拠もありません。もしも我々が、彼らの言うとおりに行動して、結果、彼らが間違っていたと分かった場合、彼らはどうやって責任を取るつもりでしょうか。

彼らの言葉を信じることは、ある種の賭けに参加するようなものです。彼らが正しければ、我々はこれまで通りの繁栄を手に入れることができます。彼らが間違っていれば、我々は取り返しのつかない損失を被るでしょう。この賭けは危険すぎます。彼らは自分たちの正しさを根拠なく信じ込んでいますが、はたから見れば、ほぼ負けることが確実な賭けです。

なぜ彼らが、彼らの教義を信じて疑わないのかといえば、そうしなければ、彼らは今の生活を続けることができないからです。すべての人が彼らの教義、資本主義が万能であるという教義を信じるならば、彼らはいつまでも金儲けを続けることができ、彼らの生活は保障されます。しかし人々が彼らの教義を信じなくなれば、彼らは成功者ではなくなります。つまり、たとえ温暖化が実際の脅威であったとしても、それを否定したほうが、彼ら自身の利益になります。もちろんそれによって、大多数の一般市民は大きな不利益を被るでしょうが、彼らの教義によれば、自分の身を守れなかった市民の方が悪いのです。

彼らは、資本主義が万能であるという彼ら自身の教義によってとらわれ、そこから逃れられなくなっています。このように一定の偏見にとらわれ、正しい推論を行えなくなった人々を愚かな凡夫と呼びます。

この問題については「中道」「運について」で詳しく考察しています。また、経済学と貨幣の問題については「マルクスについて」をご覧ください。資本主義の問題点は「資本主義とAI」「GDPと社会」「男女平等について」でも議論しています。

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