目的因とは何か

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1 序論

 古来、原子の存在に関しては様々な見解が示されてきた。
 デモクリトスやレウキッポスに始まる、古代ギリシャの原子論はよく知られている。一方でアリストテレスは、デモクリトスの学説に対して詳細な批判を加えている。彼は原子論の批判者であった。
 しかし原子論は、古代ギリシャだけではなく、古代のインドにも存在していた。そしてまたインドにも、原子論の批判者が存在していたのである。
 ここで紹介するのは、インドにおいてなされた、原子論批判の一部である。四世紀ごろの仏教僧である世親によって著された『唯識二十頌』第十一頌から第十四頌の要約を、以下に示す。

 まず、原子の概念を定義しよう。
 原子とは、物質の最小の構成要素で、部分を持たず、単一のものである。

一つ目の批判

 もしも原子が、二つ以上の他の原子と結合するならば、原子には二つ以上の部分があることになる。これは、部分を持たないという定義に反する。
 しかし、原子が二つ以上の他の原子と結合しないならば、原子が物体を構成することはありえない。

二つ目の批判

 もしも原子が部分を持たないならば、影は生じないはずである。というのも、原子が部分を持たないとすれば、光に照らされた原子は全ての方向に同じ明るさを持つはずであるから。そして、原子が影を持たないならば、原子から構成される物体も影を持たないだろう。
 しかしこれは、物体の一方には光が当たり、反対側に影ができるという事実に反する。

三つ目の批判

 もしも原子が空間的に分割されないならば、一つの原子が他の原子によって妨げられることはないはずである。
 というのも、原子が空間的な部分を持たないならば、原子同士がぶつかることもないから。この場合、全ての原子は同一の場所を占めるから、原子の集合体はみな一原子の大きさになってしまうだろう。

 以上が、世親の議論を簡単にまとめたものである。私は、これ以上に論理的な原子論批判を知らない。
 世親は、大乗仏教の学派の一つ、唯識派の僧侶であった。唯識派は、外界の実在性を否定する思想として知られている。ここで引用した個所は、原子の実在性を主張する人々に対する反論であり、彼らの論難から唯識派を擁護するためのものである。
 世親はこの本の中で、自身が立脚する唯識派の立場に加えられる、様々な批判に答えている。彼の議論のすべてが、現在に通じる価値を持っているとは言えない。しかし、ここで紹介した原子論や認識論に関する部分は、現代においても学ぶところが多いと思われる。

 さて、私の原子論に対する立場は、世親と同じである。他の論文で示した通り、現代的な原子概念には大きな困難がある。ゆえに、私は原子の存在を認めない。しかしそうすると、私は次の問題に答えなければならないだろう。
 もしも原子が存在しないのだとすれば、何が存在するのか。
 我々は、我々が生きているこの世界を、どのように説明すればよいのか。

 この問題に答えることが、この論文の目的である。そのために私は、かつてアリストテレスが用い、そして現代では顧みられることの少なくなった、目的因という概念を活用しようと思う。
 この論文ではまず、目的因という概念がどのような理由で必要とされ、また、それによって何が説明されるのか、ということが議論される。
 次に、目的因という概念に対して加えられるであろう批判に対して、いくつかの答えが提示される。ここには、目的因の展開に対して障害となりうる、哲学的・科学的な立場に対する批判が含まれている。
 最後に、目的因自体が批判される。目的因という概念がどのような根拠を持ち、どのようにして正当化されるのか、あるいは、されえないのか、ということが議論される。
 あらかじめ言っておけば、最後の議論は、仏教の十二因縁説と関連付けて、目的因を説明しようという試みである。それが十分に成功したとは言えないが、論文全体のまとめとして必要な議論であった。

2 目的因による諸々の説明

2.1

 例えば、人間の脳のはたらきについて調べている科学者がいたとしよう。彼は、神経細胞が集合して、電気的信号や化学的信号をやりとりし、人間の行動を制御している、と信じているとしよう。そして人間行動のすべてを、原子や分子などの、物質の最小構成要素から理解できる、と信じているとしよう。
 そこで、誰かが彼に、あなたはなぜ脳の研究をしているのか、と尋ねたとしよう。彼はその質問にどのように答えるだろうか。

 もしも彼が、「私を構成している神経細胞が、これこれの働きをして、これこれの神経伝達物質を出し、その結果、私はこの研究をしているのだ」と答えたとしたら、質問者はそれを真面目な答えだと思うだろうか。むしろ、それを冗談だと思うのではないだろうか。
 実際、彼の答えがどれほど正確であったとしても、それは正しい答えではありえない。正しい答えは、例えば「私は脳の機能を明らかにするために研究を行っている」とか「新しい治療法を開発するために研究を行っている」というようなものだろう。
「なぜそのような行動をするのか」という質問には、「これこれの目的で」とか「これこれの理由で」と答えねばならない。それが正しい答えであることは明らかであって、それ以上説明することはできない。

 原子によって人間の行動を説明するよりも、目的によって説明する方がより適切である、と考えられるならば、原子によってそれを説明する必要はないだろう。我々はなぜ、原子や分子から、そしてそれらによって構成される神経細胞から、人間の行動を説明する必要を感じるのか。
 それは、我々が原子を、最も優れた意味での実在である、と考えているからであろう。だからこそ、あらゆる現象を原子によって基礎づけなければならない、と考えてしまうのである。

 それでは、もしも原子が存在しないとすれば、どうなるだろうか。
 その場合、人間の行動を原子によって説明する必要はなくなる。目的による説明が、原理的な説明となりうるだろう。
 目的因が自然の原理だと考えれば、「これこれの目的で」という人間行動に対する説明は、適切であるだけでなく、究極的な正しさを持つと言えるのである。

2.2

 例えば、コップに入った水を飲むことを考えよう。あなたはコップを見て、手を伸ばし、口まで運び、水を飲む。

 目で見るのは認識するためであり、手を動かすのはコップを口に運ぶためであり、コップを口に運ぶのは水を飲むためであり、水を飲むのは喉の渇きをいやすためである。
 このとき肉体においては、網膜と視神経でコップを認識し、運動神経が腕の筋肉を動かし、喉の筋肉が水を嚥下している。それぞれの部分は、水を飲むという目的のためにはたらいている。
 また、あなたの心は喉の渇きを感じ、水を見て飲みたいと思い、飲んだ後に満足を感じる。これらの心理過程は水を飲むために、さらに言えば、生存のために働いている。

 一般的に言って、意志や認識などの心理的作用も、神経や筋肉などの身体的部分とその活動も、すべて生存という目的によって存在している。
 目的を自然の原理とするならば、我々は、人間の精神と肉体の両方を、同一の原理によって説明できるのである。

2.3

 では、人間以外の無生物・無機物を、どのように理解すればよいのだろうか。
 それら自然的存在には、それぞれの本来の性質があり、それが目的因の代わりをしている、と考えるべきだろう。
 質量を持つもの同士は引かれ合う。それが自然の性質である。同符号の電荷をもつもの同士は反発し合い、異符号の電荷をもつもの同士は引き合う。気体はボイル‐シャルルの法則に従う、等々。

 例えば、天体の運動について考えてみよう。我々は天体の間に働く引力が、距離の二乗に反比例することを知っている。なぜ引力は、逆二乗則に従わなければならないのだろうか。
 ある中心のまわりを、中心からの向心力を受けて運動する物体が、周期的な軌道を持つためには、その向心力は距離の二乗に反比例するか、あるいは距離に正比例するものでなければならない。それ以外に数学的な解は存在しないことが、ニュートンによって証明されている。
 したがって、天体に働く力は距離の二乗に反比例しなければならない。なぜなら、天体の運動は周期的であるから。また、観測事実によって、距離に正比例する力は除外される。
 つまり、周期的な運動ということが天体の自然の性質であるから、力の法則は逆二乗則でなければならないのである。

 もう一つの例を考えてみよう。科学的な意味での原子についてである。科学者は、原子が恒常性を持つものであると考えている。物質が破壊されたり変化を起こしたりしても、それを構成する原子は、変化しないままでいなければならない。それが科学的な原子の概念である。
 したがって、もしも原子の内部に運動が存在するならば、それは周期的で、不変の性質を持つものでなければならない。
 ゆえに、原子内部に働く力は、逆二乗則(クーロン力)か、あるいは、距離に正比例する力(調和振動子)でなければならない。これは、原子の恒常性から導かれる結論である。

 何らかの自然法則を導こうとする場合、我々はそれを実際の現象から帰納しなければならない。一度法則が確立されてしまえば、法則から現象を説明できるようになる。だが、科学的探究においては、その順序は逆である。我々は現象から始めて、原理を推測しなければならない。法則の結論としての自然は、我々自身にとっては常に、法則よりも先にある。我々の自然に対する認識は、科学的な知識に先行し、それを決定しているのである。

 では、そのような科学的探究そのものを自然現象として説明するためには、どうすればよいか。
 それは目的因によるしかない。科学とは、自然を理解するための営みである。

3 自由意志

3.1

 さて、様々ある精神現象の中で、最も不可解なものは自由意志であろう。これを目的因によって説明することはできるだろうか。

 例えば、喉が渇いている人が、水を飲もうとする場合を考えてみよう。「水を飲もう」という意志は、水を飲むことを目的としている。またその時に、その人が水分の足りない状態であることを原因としている。
 したがって、「水を飲もう」という意志には、二種類の原因があるといえる。一つは、身体において水が不足しているという状態である。もう一つは、水を飲むという目的、あるいは、水を飲むことで生存を維持するという目的である。ゆえに、原因によって生じたのだから、この意志は自由ではない。

 我々が経験的に知りうるあらゆる意志には、「これこれのために」という目的がある。だから、もしも目的因を正当な原因と認めるならば、あらゆる意志は原因を持つといえる。したがって、それを原因を持たない意志とみなす限りでは、自由意志は存在しない。
 もしも、自由意志が何らかの目的を持つならば、それは、その目的を原因として生じたといえるだろう。ゆえに、自由ではない。目的因という観点からは、人間の意志にはすべて原因があると言わざるを得ず、そこに自由意志が入り込む余地はないのである。

3.2

 人間は自分の意思に基づいて行動し、必要に応じて自らの行動を振り返ることができる。反省することによって、人は自らの行いを改めることができる。どのようにしてだろうか。

 我々はまず、自分が置かれていた状況を確認する。そして、その時に自分が認識していたもの、欲求の対象や行動の目的を振り返る。また、その時の感情や気分を思い出す。そして、それらの間の因果関係を考察する。
 その時感じていた感情が、あなたの行動に影響を与えただろうか。それとも、その時の欲求の対象に心を強くひかれていただろうか。それとも、その場にはない他のものや、未来における欲求の充足のことを考えていただろうか。その時のあなたの行動は、何によって決まったのか。それを決定する要因がこれだけあるのに、あなたの行動が、専ら自由な意思によって決定されたということがありうるだろうか。

 そして、もしも我々の意志や判断が、自由に生じたものであり、何の原因も持たないとするならば、我々は自分の行動をどのように反省すればよいのか。
 その場合、我々は行動の原因を知ることはできないだろう。そして、自分の行動の原因を知ることができなければ、その原因を変えることもできず、結局、自分の行動を改めることはできなくなってしまうだろう。
 自由意志の存在は、我々から反省の機会を奪い、自らの行いを改める機会を奪ってしまうのではないか。自由意志の存在を信じることは、人を堕落させるのではないだろうか。

3.3

 しかし、我々には知性がある、と言う人がいるかもしれない。我々はその時の状況を、知性によって分析し、適切な判断を下すのである。したがって、知性が意志の源であり、あらゆるしがらみから離れて、自由に判断を下すことができるのだ、と。

 では、知性が物事を判断する基準は、どこにあるのだろうか。二つの事柄のうち、一方がより良く、他方がより悪いと判断するための基準はどこにあるのか。
 知性が判断を下すものである限り、その基準から自由であることはできない。そしてその基準は、自らの生存に対する欲求にしたがって、決められるのである。
 より良いものは、より良く我々の欲求を満たすものである。知性が判断するのは、自分自身の欲求を将来にわたって、より良く満たしてくれる行動は何であるか、ということに他ならない。我々が知性と呼ぶものは、欲求の充足に奉仕するものにすぎない。

 一方で我々は、自分自身の欲求を、知性的なものだとは言わない。むしろ欲求を、知性に対立するものと考える傾向すらある。そこで、もしも知性というものが、欲求の充足を目的とする能力であるならば、そのような知性は、全く反知性的な能力であると言うことができるだろう。
 つまり、欲求の充足という観点から人間を眺める限り、そこに知性は存在しない。欲求の充足を目的とする、一種の機械があるだけである。したがって、人間の脳の中に知性のありかを探しても、見つけることはできないだろう。なぜなら、人間は生まれつき知性を持たないから。
 次は、このことを別の角度から検討してみよう。

4 カント

4.1

 私見によれば、自由意志や絶対的な主体の存在を最も強く主張しているのは、カントの批判哲学である。そこで、我々の主張を、カントの哲学によって試してみなければならない。
 カントによれば、人間の認識には二種類がある。一つは、経験にかかわりのない認識、ア・プリオリな認識であり、もう一つは経験的認識、ア・ポステリオリな認識である。ア・プリオリな認識に由来する判断が、ア・プリオリな判断といわれる。
 そして、そのようなア・プリオリな認識や判断が存在するかどうか、存在するならば、どのような性質を持つものであるか、ということを理性に基づいて究明することが、彼の批判哲学の目的である。

 さて、ここで、次のことを考えてみよう。彼は、彼の分析を、どのように行うのだろうか。
 理性によって、である。
 では、理性とは何か。彼は理性をどのように定義しているか。理性の存在はどのように保証されているか。そもそも、カントは理性の存在をどのようにして知ったのか。カントは理性を、どのような仕方で認識したのか。
 実際には、彼は理性の存在を証明していないし、定義を与えてもいない。しかし、彼の批判哲学の全体は、理性の存在を前提としているのである。

4.2

 次のように考えてみよう。〈理性が存在する〉という命題は、ア・プリオリな認識に基づくア・プリオリな判断であろうか。それとも、経験的な判断だろうか。

 まず、それが、ア・プリオリな判断であるかどうか考えてみよう。ア・プリオリな判断とは、「厳密な普遍性」を持ち、「ただ一つの例外をも許さない」と考えられるものである。しかし、このような判断の分析そのものが「理性の仕事」なのであるから、ア・プリオリな判断は理性の存在を前提としている。
 理性は「ア・プリオリな認識の原理を与える能力」である。したがって、〈理性が存在する〉という判断自体は、ア・プリオリではありえない。

 次に、それが経験的な判断であるとしてみよう。しかし、ア・プリオリな認識の原理を与える理性の存在が、経験的にしか証明されえないものでよいだろうか。この場合、先験的哲学のすべてが、経験に依存することになるだろう。
 したがって、それは、ア・プリオリな判断でもありえないし、経験的な判断でもありえない。理性の存在は、カントの哲学体系では証明できない。そこでは、理性そのものを認識する手段が用意されていないのである(以上、カギ括弧中の引用は『純粋理性批判』(第二版)緒言より)。

4.3

しかしここで、次のように反論する者がいるかもしれない。

 もしかすると理性は、それ自身を知る能力を持つのではないか。理性がそれ自身を認識するのだとすれば、そこに先験的と経験的の区別を考える必要はなくなるだろう。

 そうだとしても、カントはどのようにして理性を知ったのか、という問題が残る。それが不可能であることは既に述べた。

 では、理性にはそれ自身を知る能力があり、かつ、カントと理性は同一のものであった、と考えれば問題はないのではないか。
 カントそのものが純粋理性だったのだとすれば、自分自身の存在を改めて知る必要がないように、純粋理性を認識する手段は必要ないだろう。

 カントは純粋理性ではありえない。なぜなら、その本を書いたのはカントなのだから。すなわち、カントには手があった。一方で、純粋理性に手が生えている、という話は聞いたことがない。したがって、カントと純粋理性は別のものでなければならない。
 自分とは別のものについて、あらかじめ知っていることはありえないので、彼は何らかの方法で、それを認識しなければならなかったはずである。しかるに、すでに述べたように、いかなる認識によってもそれを知ることはできない。
 また、もしもカントと純粋理性が同一のものであったならば、それはカントだけのものなのだから、我々とは何の関係も持たないだろう。彼が死ぬのと同時に、純粋理性も存在しなくなったはずである。

 そうではない。純粋理性はカントと同一なのではなく、その一部分なのだ。

 しかし、たとえそれが自分の一部分であったとしても、それについて知るためには何らかの認識が必要である。
 例えば手は、我々の身体の一部分である。しかし、自分の手について知ろうと思ったら、それを目で見て認識するか、あるいは他の感覚によって手を認識しなければならないだろう。それが自分の一部であるからといって、あらかじめそれについての知識があるわけではない。

 そうではない。カントが、純粋理性の一部分なのだ。

 それもありえない。一般に、A に含まれているものが B に含まれていない場合、A が B に含まれていることはありえない。いま、カントには手があり、純粋理性には手がないのだから、カントは純粋理性の一部ではありえない。
 結局、どのようにしても、純粋理性の根拠を示すことはできない。カントの哲学体系は空虚な思弁に基づくものであり、我々の生存に対して何の説明も与えられないのである。

5 進化論

5.1

 さて、本題に戻ろう。 目的因による自然の説明に対して、次のような反論があるかもしれない。

 あなたは、目的因が自然の原理だと言ったが、生命の進化について言えば、それは正しくない。生命は、遺伝と淘汰によって進化し続けてきたのであって、生命の進化に目的があるわけではない。

 進化に目的があるとは言っていない。生命活動それ自体が、生命体の目的なのである。
 生命体の各部分は、生命活動を維持するためにはたらいている。進化論の役割はむしろ、そのような生命体の各部分が、どのように生命活動の役に立っているか、ということを明らかにすることではないか。

 例えば、「鳥の翼は飛ぶためにある」ということを説明できなければ、誰も進化論を信じようとは思わないだろう。我々が進化論を信じるのは、それが、目的によるのと同一の説明を与えてくれるからである。進化論は、「目的」という言葉を、「適応度」という言葉によって正確に言い換えている。
 生命体に不要な部分はなく、それは何らかの形で生存に役立っているか、少なくとも生命活動に害をなすものではない、ということを明らかにするのが進化論の役目であろう。したがって、目的因と進化論は矛盾しない。

5.2

 しかし、生命活動が生命の目的である、と考えるのは誤りである。生命体は、遺伝情報の維持のために存在している。進化はその副産物にすぎない。

 もしもそうだとすれば、遺伝情報が進化の主体であることになるだろう。しかし、それはありえない。なぜならば、進化とは遺伝情報の変化であるから。

 遺伝情報の変化とは、何に対しての変化なのか。何から何への変化なのか。
 それは、以前の遺伝情報から、現在の遺伝情報への変化であろう。
 その過程で、遺伝情報は保存されるのだろうか。むしろ遺伝情報そのものが変化し、何も保存されないのではないか。

 つまり、進化の過程において、遺伝情報は保存されない。言い換えれば、遺伝情報は遺伝しない、ということになる。遺伝が存在しなければ進化は存在しえないのだから、この場合、進化は存在しない、ということになる。
 突然変異を起こした遺伝子は、形質を遺伝しないのだから、もはや遺伝子とは言えない。一方で、突然変異が生じなければ、進化は生じない。ゆえに、遺伝子が遺伝子である限りにおいて、進化は起こらない。


 例えば、茶色いネズミから白いネズミが生まれたとしよう。このとき、何が変化したのか。

 ある人はこれを、「茶色い体毛」という形質が、「白い体毛」という形質に変化したのだ、と言うだろう。
 しかし実際は、どのネズミの毛の色も変化していない。茶色いネズミは生まれた時から茶色のままだし、白いネズミも生まれた時から白いままである。形質が変化したのではなく、親とは別の形質を持ったネズミが生まれただけである。

 形質の変化は、想像上の出来事にすぎない。二つの個体が本当は同一のものである、と考えることではじめて、形質の変化という概念は意味を持つのである。
 一般に性質の変化とは、あるもの(基体)において、ある性質が変化する場合に言われる。ソクラテスという人間が、教養のないものから教養のあるものへと変化した、と言われるように。このとき、ソクラテスという個人は、変化の過程において存在し続けている。つまり基体そのものは、変化の前後で同一でなければならないのである。
 したがって、基体が存在しないならば、性質の変化もありえない。いま、進化には基体が存在しない、ということは上で見たとおりだから、進化は性質の変化ではない。個体も進化せず、遺伝子も進化しないのに、他の何が進化するのか。

 進化論とは、種の創造を説明するための理論である。したがって、種の存在を仮定しない限り、進化論全体が意味をなさなくなってしまうだろう。進化論が正しいとか、間違っているとか言うことができるためには、まず種の存在を認めなければならない。
 ここまでの議論で、目的因と進化論が矛盾しない、ということは説明されたこととしよう。

5.3

 しかし、遺伝情報が遺伝しないならば、なぜ子は親と同じ種になるのか。また、種とは何か。

 子が生まれるとき、子は親を原因として発生する。親の遺伝子が原因となって、子の遺伝子が作られるのだから。親がそのまま子になるわけでもないし、親の一部が子になるわけでもない。遺伝子も個体も、その都度作られるものである。
 また、遺伝子が発生の原因であるわけでもない。遺伝子は、それ自身では何も出来ないのだから。遺伝子を発現させるための原因となるものが必要であり、それによって発生が始まるのでなければならない。それは親の個体であろう。つまり、種とは発生の連続である。

 現在の進化論によれば、生命の起源は、純粋に化学的なものだったとされている。発生の原因が親の個体にあると言うなら、地球の生命は、どのように生じたと説明されるべきか。

 例えば、現在の科学技術によって、太陽系外の惑星に探査機を送る実験を行うことは、十分に現実的なことと言えるだろう。そして、その探査機に、細菌などの、地球生命のサンプルを運ばせたとしよう。もしもそれらの生命体が、その惑星で生活し始める様子を観察できたならば、我々はそれを、地球生命の起源の証明と考えることができるだろう。それは再現可能な現象でありうる。
 また、もしも無機物から生命が発生したと主張するなら、あなたは、あなたが否定する自然発生説を、自ら肯定することになるだろう。

6 宇宙論

6.1

 しかし、宇宙に始まりがあるからには、生命にも始まりがなければならないだろう。宇宙は無からの創造、つまりビッグバンによって始まったのだ。

 ビッグバン説を科学的な理論として認めることはできない。無からの創造という考え方は、非科学的である。

 もしも、宇宙が何らかの原因から生じたのだとすれば、その原因は、この宇宙と、因果関係によってつながっていることになる。よって、それは、この宇宙の一部であることになるだろう。この場合は、無からの生成とは言えない。
 一方で、宇宙が原因無しに生じる、ということもありえない。もしも、あるものが原因無しに生じることを一度でも認めるならば、あらゆるものがあらゆる場所に生じうることを、認めざるを得なくなるだろう。というのも、原因無しにものが生じうるのだとすれば、ある場所にあるものが生じない理由も無くなるだろうから。

 さて、ここで一度、原因という言葉について考えてみよう。ある現象が、ある原因によって生じるということは、その現象が、ある条件のもとでのみ生じ、他の条件のもとでは生じない、ということを意味する。その場合、条件を厳密に定めることができなくても、我々は、その現象には原因があると言う。条件が知られていないということは、条件が存在しないことを意味するわけではないのである。
 それとは逆に、ある現象が、原因無しに生じるとしよう。その場合、我々はその現象が生じる条件だけでなく、その現象が生じない条件を定めることもできなくなるだろう。そして、あらゆるものがあらゆる場所に生じることを、認めざるをえなくなるだろう。というのも、ある現象が生じる条件の中には、その現象がどの種類の現象であるか、という条件も含まれるのだから。よって、ある特定の現象が、無原因では生じない、と言うこともできなくなるだろう。
 したがって、原因無しに何らかの現象が生じることを一度でも認めるならば、あらゆるものが、原因無しに生じることを認めざるをえない。

 ゆえに、宇宙が原因無しに生じたと言うことはできない。自然現象の法則性を信じるならば、無からの生成は、いかなる場合にも認められない。
 宇宙は原因から生じることも、原因無しに生じることも認められないのだから、それには始まりがないと言うべきだろう。

6.2

 しかし、宇宙が無限に続くことはありえないだろう。我々の考えでは、宇宙は不可逆過程によって保たれている。星々の活動はいずれ終わり、宇宙に輝くものは何もなくなってしまうだろう。そして、宇宙に終わりがあるならば、始まりもあるはずではないか。

 そうかもしれない。もしも、宇宙が定常的だと考えたいならば、この宇宙を動かし続ける仕組みを考えなければならないだろう。
 アリストテレスは、それを不動の動者と呼んだ。それは、自らは動かずに、宇宙を動かし続けるものである。また、それは宇宙を動かし続けるのだから、時間的な意味で最初であるわけではない。

 なぜ我々の科学は、過去のある特定の時点に生じた、一度きりの現象に束縛されねばならないのだろうか。それは本当に、科学のあるべき姿だろうか。

7 生存の目的

7.1

 生命体の目的が生存であることは、すでに説明された。では、生存それ自体に目的はあるのだろうか。それとも、それが目的の終極だろうか。ある物の目的が、はっきりとは知られていない場合、どのようにすれば、その目的についての明確な認識を獲得できるだろうか。

 その場合、それがどのような状態のときに、最もよいと言われるか、ということを確かめてみればよい。
 例えば、ある靴がよい靴だと言われたとしよう。それは、その靴が歩くのに適している、ということを意味するだろう。こうして、靴が歩くためにある、ということが知られる。つまり、あるものがよいと言われるのは、それが、それの目的に適っている状態にあるときである。
 靴の場合は、それが何のためにあるかということは、はじめから明らかであった。では、生存についてはどうだろうか。我々の生存の目的は何であろうか。

 それを知るためにはまず、我々の生存が何によって構成されているか、それが実際何であるか、ということを考えてみなくてはならない。

7.2

 ある人間の生とは何であろうか。
 それは、その人が行ってきたことの総体ではないだろうか。生存とは行動のことではないか。
 生きているものとは、運動するものであり、行動するもののことである。したがって、生について知るためには、行動について知らなければならない。

 生存の過程において、我々が何事かを感覚し、欲求し、判断することの結果は、常に行動において現れてくるはずである。
 我々にはまず、感覚が与えられる。そして、感覚によって欲求が生じる。欲求に対して、我々は様々な思いなしを行い、知性によって考え、最良と思われる判断を下し、その判断が行動となって現れる。
 確かにそれは欲求に基づいていて、主として生存のために行われるだろう。知性を持たない動物の場合には、そのような行動がほとんどを占めるだろう。しかし、生存のためではなく行われる行動があることも、確かである。そして、そのような行いの中に、生存のための行いよりも良い、と考えられる行いが含まれるはずである。

 我々は、己の損を気にかけずに他人を助ける行いを、生存のための行いよりも、よいものであると言う。したがって、最もよいと言われる行いは、道徳的な行いである、と言えるのではないか。
 一方で、思慮や判断といったことがらが、結局は己の生存のためにある、と考える人もいるだろう。目の前にある欲求を満たすよりも、さらに多くの利益が得られるような選択をするために、それらの知性的な能力があるのだ、と考える者もいよう。そして、そのように、より多くの利益が得られるような行いこそが、最もよい行いである、とその人たちは言うであろう。

 しかし例えば、ある行為が、自らにとって最大の利益をもたらす行為であり、かつ、それが道徳的に優れた行為でもあったならば、我々はその行為を、ただ単に最大の利益をもたらすだけの行為よりも、よいものであると言うであろう。
 一方で、己の利益が少なく、かつ道徳的である行いは、己の利益が多く、かつ道徳的でない行いよりも、よい行いであると言われうるのであるから、何がよい行いであるかは明らかである。
 例えば、窓から落ちそうになっている子供を見て、何もしない人間をよい人間であるとは言わないだろう。むしろ、たとえそれが彼自身の身を危険にさらすとしても、その子供を助けようとする人間を、よい人間と言うのである。
 したがって、端的によい行いと言われるのは、道徳的な行いである。

 これによって、我々の生存の目的も明らかにされたと言ってよいだろう。ある行動がよい行動であると言われ、そのような行動をする人の生が、よい生であると言われるならば、我々の生の目的は、そのような行動をすることにあると言える。つまり、生存の目的は道徳である。

7.3

 我々は道徳を、演繹的に知ることはできない。それは、諸々の事象に対する考察と分析を通して、帰納的に知られうるのみである。
 もしも、我々の生存の目的が道徳であり、道徳が目的の終極であるとするならば、道徳自体は目的を持たず、いかなる原因も持たないだろう。したがって、道徳は根拠を持たない。それは逆に、人間のあらゆる行為の根拠でなければならないのである。

8 目的因と縁起

8.1

 以上の議論によって、生命体の目的が生存活動であり、生存活動の目的が道徳であることが明らかにされた。

 ここで、生存活動と言われるものの成り立ちを、再び考えてみよう。
 生存活動を維持するために必要なことは、栄養の摂取である。栄養を摂取するために必要なことは、感覚することである。感覚の対象によって、我々は快・不快を感じる。
 快いものは生存に必要なもの、栄養物であり、不快なものは生存に不必要なもの、避けるべきものである。ここから、快いものに対する欲求が生じ、不快なものに対する嫌悪が生じる。
 欲求によって我々は動かされ、快の対象を手に入れようと行動する。そうして、生命活動が維持されるわけである。

8.2

 しかし、我々は、感覚と感覚の対象を区別することはできない。
 感覚の瞬間には、感覚と感覚されるものは同一である。なぜなら、我々は色を見るのと同時に、眼があるとは感じないから。一方に見られるものがあり、他方に眼があるということは、ものを見るという現象を反省した時に、理解されることである。
 しかし、感覚される対象が存在しなければ、感覚が生じないということも事実である。そして、それらは感覚されることを本性としてあり、感覚されることを目的としてある。そうでなければ、それらを感覚することはできないだろう。
 対象を感覚することによって、我々の中に欲求が生じる。そしてその欲求は、我々の生存のためにある。

8.3

 感覚の対象の存在は、生存に必要である。もしも感覚の対象が存在しなければ、我々は死んでしまうだろう。しかし、我々は現に生きている。ゆえに、それは存在しなければならない。生存を原因として、感覚の対象が生じるのである。

 一方では、感覚の対象によって感覚が生じる。
 他方では、感覚の対象は感覚のために生じる。
 一方では、感覚によって欲求が生じる。
 他方では、感覚は欲求のために生じる。
 一方では、欲求の対象を得ることによって、生存が生じる。
 他方では、欲求は生存のために生じる。

 つまり、感覚の対象によって生存が生じ、感覚の対象は生存のために生じる。このようにして、存在と、存在するものに対する執着が生じる。
 見ることによって目が生じ、聞くことによって耳が生じる。触れることによって身体が生じ、考えることによって心が生じる。感覚によって存在が生じ、存在によって感覚が生じる。この連鎖には、始まりも終わりもない。
 あるものが存在するという思いを捨てたとき、生存は滅びる。それが知恵のはたらきである。

9 西洋と東洋

 西洋的な世界観では、知性ある存在が世界を創造した、と言われる。アリストテレスは、能動知性によって世界が作られると言い、キリスト教では、知性ある絶対者が世界を作ったとされる。
 したがって、西洋の世界では、知性の存在はあたりまえのものである。知性ある存在が、自らの似姿として作ったものに、何らか知性が宿っていると考えるのは自然である。このような立場からは、人間の営みは知性の営みとして理解される。
 一方で、仏教では、無知が世界を作ったとされる。無明を原因として世界は生じ、そのために、あらゆる衆生は常に無明の闇にとらわれている、と考えられている。したがって、仏教の世界では、知性の不在があたりまえの状態である。だからこそ、知恵ある人間が存在するということが、奇跡なのである。

 このような違いから、学問に対する姿勢の違いが現われてくるのではないだろうか。
 西洋の学問は、知性を前提として出発する。
 東洋の学問は、知性を目的として出発する。
 知性の存在は自明のことではなく、いまだ到達されていないもの、未来において獲得されるべきもの、とされるのである。(終)

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<参考>
遺伝子の発現
銀河生物学

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