法華経

 法華経は不思議なお経である。大した内容もなく、たとえ話だけが延々と続く。私が初めて読んだときには、ただ言葉の響きに圧倒されるだけで、何が書いてあるのかよく分からなかった。
 しかし、しばらくするとまた読みたくなる。そうして何度も読んでいるうちに、少しずつその教えが心に染み込んでゆくのである。読む人によって、このお経から受ける印象は異なると思うが、私が法華経から受け取ったメッセージは、次のようなものだった。

 ときどき、科学者とか哲学者の人が、真理は知りえないものである、と言うのを耳にすることがある。人間には真理は知りえないかもしれないが、それを探求することに意味があるのだ、といったような話である。
 しかし、どうして彼は、それが知りえないものであることを知っているのだろうか。真理は知りえない、と主張する人間は、真理が何であるのかを知らないはずである。それなのに、それが知りえないものであることを、どうして彼が知っているのか。彼が真理を知らないのであれば、それが知りえないものであるかどうかも、彼には分からないはずではないか。
 そうすると、真理が知りえるものである可能性も、確かに存在するわけである。さらに、それはすでに誰かによって発見されているが、自分はそれに気付いていないだけだ、という可能性もあることになる。そして、それは仏陀によってすでに発見されている。ゆえに、真理を知りたいと思うならば、仏の教えを学べばよい。

 それが、私が法華経から受けた印象であった。それから私は中論の勉強を始めた。
 真理は存在しない、あるいは、真理は知りえない、という主張には、原理的に根拠が存在しえない。ゆえに、それは無意味な主張である。一方で、真理は存在する、あるいは、真理は知りえる、という主張は、意味のある主張である。

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