仙台市の観光資源

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 戊辰戦争のとき、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として戦いに参加し、千人以上の戦死者を出した。彼らの魂を弔うための石碑が、伊達家の霊廟である瑞鳳殿の境内に、いまも立っている。瑞鳳殿には外国の観光客もよく来ているようだが、彼らがどれだけその場所を理解できているのか、はなはだ心もとない。戊辰戦争の弔魂碑などは、ラストサムライの記念碑だとかいうことにして、面白おかしく紹介することもできるのではないか。
 東北の人々にとっては、戊辰戦争は負の歴史として語られがちである。だが見方を変えれば、それも立派な観光資源になりうるのである。将軍家のために命がけで戦うサムライというものには、どこかロマンを掻き立てるものがある。

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 勝てば官軍ということで、明治時代には薩摩や長州の藩閥が幅を利かせていた。東北諸藩の出身者はその割を食うことになり、そのことから、明治政府に刃を向けた祖先を疎んじる気持ちが、自然と芽生えてくるようになる。
 しかし、別に明治政府に大義があったわけではない。そもそも、幕府が開国を決断したのに対して、朝廷は攘夷を主張し、そこから幕府と朝廷の対立が生じた。その朝廷を支持する形で明治政府が生まれたにもかかわらず、当の新政府は普通に開国してしまった。その結果から見れば、どうして旧幕府軍が倒されねばならなかったのかが分からない。開国を主張する者が朝敵であり賊軍であるならば、官軍こそが賊軍だったわけである。
 さらに言えば、武士である以上は、主君に忠義を誓わなければならない。主従の関係がないがしろにされるならば、武士の存在意義は無くなってしまう。したがって、主上である徳川将軍家に歯向かう薩長こそが、武士の本分を忘れた不心得者であり、大義は列藩同盟の方にあることになる。

 私は、明治維新の一番の問題点は、まともな戦いが行われなかったことだと思う。そしてその理由は、官軍に大義が欠けていたからなのではないか。幕府側がどれだけ大義を振りかざしても、官軍はそれに答えるだけの大義を持ち合わせていなかった。だからこそ、そもそも衝突の起こりようがなかったのである。この戦いには、何のために戦うのかという目的が欠けており、どこか馴れ合いのような雰囲気さえ感じられる。はっきり言って面白くない。
 本当は、旧幕府軍と新政府軍の間で、思想的な対決が行われるべきであった。どちらが正しいのか、という大義と大義のぶつかり合いが演じられるべきであった。そのために犠牲が必要ならば、どれだけの死者が出ても構わなかったと思う。しかし実際はそうならず、下手な出来レースが演出されただけである。その後の日本の進路を決定付ける思想のなさというものが、ここにすでに現れているのではないか。
 勝海舟は、氷川清話の中で度々新政府を批判し、徳川時代を懐かしんでいるが、それも理由のないことではなかったのである。

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 仙台は学都と呼ばれることもあるが、昔は軍都と呼ばれることが多かった。戊辰戦争ののち東北鎮台が仙台に置かれ、それが第二師団へと名前を変えた。そして、様々な日本軍の施設がその周辺に集められた。ある資料によれば、仙台市街の半分以上の土地が、軍関係の施設や家屋によって占められていたという。

 第二師団は、帝国陸軍きっての精兵として知られている。また、宮城野原にあった仙台陸軍幼年学校の著名な卒業生として、石原莞爾がいる。彼は現在の榴ヶ岡公園に置かれていた、歩兵第四連隊の連隊長を務めていたこともある。その兵舎の一棟はいまも残されており、歴史民俗資料館として一般に公開されている。
 中国近代文学の礎を築いた魯迅は、仙台医学専門学校に留学し、ここで藤野先生と出会っている。また宮城県栗原市には、安重根の看守であった千葉十七にちなんで、安の顕彰碑が建っている。こうして見てくると、宮城県には、近代アジア主義揺籃の地、という側面もあることが分かる。
 一つの町には一つの歴史がある。その歴史を見直すことから、地域の再生は始まるのではないか。戊辰戦争の過去も、軍都であった過去も忘れるべきではない。むしろ、それを武器に変えるような強かさが必要である。

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