遺伝子の水平伝播

微生物において遺伝子の水平伝播が起きていることは古くから知られていたが、最近では哺乳類を含めた高等動物においても、水平伝播が起きていることが確認されたという。この事実がダーウィンの進化論を否定することになりはしないか、と心配している人がいるらしい。なぜならば、遺伝子が種を超えて伝播するのであれば、生命を単一の系統樹によって説明しようとする従来の分類学は間違っていたことになるからである。

しかしそれは杞憂であろう。なぜならば、進化論はダーウィンだけが作ったのではなく、ウォレスとの合作だからである。ダーウィンは、進化の原動力を個体間の競争に基づく自然淘汰であるとした。一方で、ウォレスはむしろ、環境への適応が進化の原動力であると考えた。遺伝子の水平伝播が個体間でも生じうるのであれば、ダーウィン流の自然淘汰は、理論的には否定されざるを得ない。もちろん、実際的には自然淘汰の理論は有効であり続けるだろうが、それでもウォレス流の進化論の方が、水平伝播の事実とは相性がいいだろう。

ネオダーウィニズムでは、進化は遺伝子プールにおける対立遺伝子の割合の変化として定義される。しかし、もしも遺伝子の水平伝播が事実だとすれば、遺伝子プールは種を超えて広がっていることになる。そうすると、遺伝子の淘汰という観点から、種の起源を説明することは不可能になる。つまり、種は遺伝子とは関係がないと考えざるをえない。

「種=遺伝子」であるならば、遺伝子の水平伝播は種の交差を意味することになる。だが、生物は遺伝子のみによって構成されているわけではない。それ以外の様々な要素の複合体として、一個の生命体は存在している。ゆえに、遺伝子が水平伝播したからといって、種が交差したことにはならない。さらに、エピジェネティクスが示唆するところによると、遺伝は塩基配列のみによって生じているわけではない。塩基配列以外にも遺伝を生じさせるメカニズムは存在しうるのである。したがって、塩基配列が水平伝播したからといって、それが直ちに、すべての遺伝子が伝播しうることを意味するわけではない。

しかしながら、遺伝子プールが種をまたいで広がっていることは認めざるをえない。そうすると、進化は環境への適応の結果だと解釈するのが最も妥当であろう。なぜならば、遺伝子は私有財産というよりも、公共資源に近いからである。私有財産を守るための競争の結果として、進化が起きるのだとすれば、すべての財産が公共のものである場合には、進化は起きないことになる。しかし、実際に進化は起きているのであるから、競争の原理のみによって進化を説明することはできないだろう。もちろん、理論的にはということであって、自然界においてダーウィン流の淘汰が働いていないとは言えない。ただ、必ずしもそうした見方をとる必要はない、とは言えるのではないか。遺伝子の水平伝播は、我々に新しい種の定義を提示してくれるかもしれない。

私自身の意見を述べれば、種は、生物そのものの中に存在するというよりは、それを識別する我々の認識能力の中に存在するのだと思う。遺伝子によって種を定義しようとする試みは、種の本質が、何らかの形で生物の中に存在する、という想定に基づいている。つまり、遺伝子を、種の実体と同一視しようとしているのである。

しかし、それはあまりにも単純な考え方であり、常に変化し続ける生物体の中に普遍の実体が存在する、という想定には根拠がない。そうではなく、種を認識する人間の方に種の本質が存在する、と考えたほうが合理的だろう。なぜなら我々は、我々の認識を通してしか自然を知りえないからである。そのために、いわば認識の限界というものが人間にも存在すると考えられる。我々は、我々が認識できる以上に自然を知ることはできない。それが種の存在を生み出しているのではないか。

このような見方をとる場合、遺伝子は生物の本質ではなく、生命体の機能の一つと考えなければならない。それは、生存を有利にするための道具である。

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