仏教徒は神に祈るべきか

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日本では神仏習合があたりまえだったので、仏教徒が神に祈ることもそれほど珍しくない。しかし、スリランカから来た坊さんなどには、やはり奇異に思えるらしい。

まず基本的な言い訳から始めれば、日本の神様は仏教の守護神だということになっているので、仏教徒が神に祈りを捧げても問題はない。間接的に仏陀に祈りを捧げていることになるからである。

また、日本人は神様といっても、何か超越的なものに祈りを捧げているという感覚はない。恵みをもたらしてくれる山に感謝する、といった感覚に近いのではないか。

目に見えないものが存在する、と考えるのは別に不思議なことではなくて、カビの胞子やなんかも空気中を漂ってはいるが、目には見えない。神様というのもそれと同じで、ただカビよりは人間に近いから、礼儀を欠かすわけにはいかない。日本人にとっての神様は、多分そういうものではないだろうか。

たしかに目には見えないので、存在するかどうかは分からない。しかし、昔の人はいると言っているので、それを無視するわけにもいかない。いないいないと思っていたけど実はいた、ということになれば、それまでの非礼を咎められるかもしれない。そう考えると、とりあえず祈っておいたほうがいい、ということになる。

だいだい日本人というのはそんなものである。いてもいなくても困らないような行動を取るので、実際どっちであろうが大して気にしない。その上、どっちでもいいと言うと角が立つので、どっちでもいいとも言わない。だから、見た目には敬虔に見えることもある。

日本人は、いる・いないという判断をあまりしない。二択に答えることはできるだけ避けようとする。どっちかに決めてしまうと、逆が正解だったときに困るからである。

また、それに答えることで、取る必要のないリスクを取らされてしまうこともある。そもそも、その二択が間違った前提に基づいている場合、どちらを選んでも不正解ということもありえる。だから二択を迫られた場合は、できるだけ答えを引き伸ばすのが正解だ、と言えなくもない。それが日本的な打算であり、ある種の合理性である。

日本人の神に対する態度は、そういう打算に由来すると思われる。打算が敬虔に似るという奇妙な状況である。

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こういう優柔不断な態度は、日本以外の文化では良くないことと見なされるかもしれない。

しかし、判断の引き延ばしを肯定的に評価する場合もあって、たしかマハーバーラタの解脱法品に「悠長なる者チカーリン」という話があったと思う。この話には、バラモンの夫婦とその息子チカーリンが出てくる。あるとき、父が怒って母を殺すように息子に命じて、そのまま旅に出てしまう。

ヒンドゥー的な価値観では父親の権威は絶対的なものであり、さらに、バラモンの師匠の命令も絶対的なものである。ゆえに、父であるバラモンに弟子として仕える息子としては、その命令を無視するわけにはいかない。しかし、子どもとして母を殺すわけにもいかない、と延々悩み続けている間に、父が帰ってきて、さっきのは間違いだった、と告げる。優柔不断なチカーリンは、その優柔不断さゆえに良い結果をもたらした、という話である。

この比喩は非常に巧みなもので、ここから様々な考察を導くことができる。西洋人はここで、父の考えが間違っているはずはない、と考える。だから、どちらかに決めなければならない、という一種の神経症に陥りやすい。

一方で、日本人は間違いの可能性を信じている。間違った判断もありうる、と思っているので、曖昧な態度でお茶を濁すこともある。これを甘えや幼稚と捉える人もいるかもしれないが、私は狡猾と言ったほうがいいと思う。名よりも実をとる人々である。

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仏教は超越的なものをすべて否定する。超越的なものを信じることが宗教だと考える人もいるが、そういう見方をするならば、仏教は宗教ではない。

超越的なものを信じるということは、世俗的な人間に特徴的なことである。それは、自分には原理的に判断ができない問題について、それにもかかわらず無理矢理判断を下す、ということである。そういう人間を凡夫というのであって、ヨーロッパで宗教的と言われる人はみな、仏教ではただの愚か者である。

ゆえに、日本人は誰も信仰を持っていない。それが仏の教えだからである。

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