人間は記号である

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人間は記号である、とパースは言った。

記号と物を区別する考えが西洋にはある。しかしパースによれば、物は記号の一種でしかない。なぜかといえば、物が存在する、という考えがそもそも誤りだからである。


あるものの存在を知るとき、我々は、それを何らかの感覚器官を通して知ることになる。最も分かりやすいのは目であろう。目でものを見るとき、我々はものを直接見るわけではない。我々が見ているのは、ものの表面で反射された光である。その光は何らかの光源から発されたものであって、光源の種類が異なれば、ものの見え方も異なる。

では、ものの見え方が異なれば、もの自体が異なると言えるのか、といえば、それは少し違う。そもそも、ものが光を反射するとき、そのもの自体も変化しているからである。光は電磁波の一種であり、電磁波とは、電場と磁場の変化が空間を通して伝わる現象である。そして、ものが光を反射するということは、そのものがあらかじめ持っている電磁場が、入射してくる電磁波と作用することによって、新しく散乱波が作られる過程である。その際に電磁的な相互作用を通して、ものの方も変化を受けることになる。つまり、光を反射する反動を、ものの側も受けているということである。

そのように、ものが変化する過程を伴わずに、我々はものを見ることはできないし、また、他のどんな感覚作用についても同じことが言える。ものの方が変化せずに、ものを知覚することはできない。ゆえに、ものを見る前と後とでは、それは別のものに変化してしまっているのである。


感覚とは変化であり、変化を通してしか、我々はものの存在を知ることはできない。そして、その存在を知ったときにはすでに、それは別のものになってしまっている。ゆえに、我々はものそのものを知ることはできないし、そもそも、それが存在するという考えが間違いである。この世界は、存在者によって成り立っているのではない。変化によって成り立っているのである。何らかのものが存在するという考えが誤りであるというのは、そういう意味である。

そして、記号とは変化である。我々はふだん、記号を変化しないもののように考えているが、そうではない。紙に印刷された文字を見るとき、我々は紙の表面で反射された光を見ている。光を反射することによって、インクと紙の構造が変化する。それによって、記号の表現そのものが変化しているのである。記号とは静止したものではなく、常に変化し続けるものであり、そうでなければ、記号としてのはたらきは為しえない。

ある記号が我々に作用しうるためには、それは我々の知覚に訴えるものでなければならず、我々の知覚に訴えるためには、それは変化するものでなければならず、変化するものであるということは、それはものであるということである。ゆえに、記号はものであり、ものは記号である。しかし、記号はそれ以上のものでありうる。

ものが何であるかということを定義することは難しいが、一定期間同じ形をとっているように見えるもの、という定義が妥当ではないかと思う。そう考えると、ものは記号でなければならないが、記号がものでなければならないとは言えない。記号とはこの世界そのものであるが、ものはその一部分でしかない。ものは、記号の現れ方のほんの一側面でしかない。

人間は記号であるとは、おおよそ以上のような意味であろう。そこには同時に、諸行無常と諸法無我の考えが含まれていると言える。ゆえに、パースを理解するためには、仏教の認識論が役に立つだろう。パースという人間は、つくづくアメリカにはふさわしくない人であった。

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仏教の用語を使えば、物を知覚するときに、物の側に反作用が生じることを有対という。反作用が生じないことを無対というが、これは、思考を知覚作用の一種として捉えているからである。仏教では知覚作用は六つあるとされる。いわゆる五感と思考作用である。思考が知覚に数えられるのは、それがものの認識に基づいているからだと考えられる。

たとえば、晩御飯の献立を考えるときに、今日はカレーを作ると決めたとしよう。そうすると、カレーを作るためには玉ねぎとトマトと鶏肉が必要で、鶏肉は冷凍してあるからそれを解凍して、などなど色々と考えをめぐらすことになる。そのように思考作用を行うために必要なのは、個々のものの認識である。まずカレーの認識があり、玉ねぎとトマトの認識があり、それらの間の関係を思考するわけである。

このような思考作用を、知覚作用とひとつながりのものと考えることは、不自然ではない。ものの認識は感覚作用とは別のものだが、それ自体を一つの知覚作用と考えることもできる。そして、思考作用が無対であると言われるのは、玉ねぎについて考えるだけでは、現実の玉ねぎには反作用が生じないからであろう。

六識とは、眼耳鼻舌身の五識と意識を合わせたものである。このうち前者五識が有対と言われ、意識は無対と言われる。

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私の書いた文章をあなたが読むとき、蛍光灯から放出された光が紙の表面で反射し、それがあなたの水晶体を通って網膜を刺激し、その刺激が脳に達してシナプスの構造が変化する。そしてあなたは私の意見について、これは正しい、これは間違っている、これは気に入らない、これは好ましい、というように色々な判断を下す。それらの考えがもしかするとあなたの手を動かし、文章を書かせ、あなたの意見が私のところにまで届くかもしれない。それら一連の現象全体が、一つの記号作用である。

記号は静止したものではないし、紙と紙の間に挟まっているようなものでもない。それは運動するものであり、流れるものであり、人間を動かすものである。人間のあらゆる活動は、一つの記号作用として理解できる。

記号は人間の外にあるのでもないし、内にあるのでもない。それは外から内に運動を伝え、また内から外へと運動を伝える。それは、どこかにある、と言うことはできないが、どこにもない、と言うこともできない。それはたしかに活動を引き起こすが、どこか一か所に存在するものではない。それは空である。それは無常である。それは縁起である。記号は人間そのものである。


私自身は、パースは辟支仏であったと考えている。辟支仏とは、仏の教えによらずひとりでに悟りを開いた者で、菩薩でもなく仏陀でもないが、仏の一種である。彼は本当に偉大な人であった。

ちなみに、デューイが反射弓に関する論文を書いたのは偶然ではなく、それはおそらくパースの記号論に対応している。パースにおける記号は、心理学的・生物学的な反射弓の概念を一般化したものだと言える。私の意味単位の理論も、彼の記号論の一変種である。

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