恋愛主義

恋愛主義と少子化

恋愛は男女関係における自由主義の表現である。我々の社会では、各人は自由な意志に基づいて異性と関係を持ち、結婚に至る。

恋愛結婚と比較されるものとして、お見合い結婚がある。令和4年度男女共同参画白書によれば、1935年に結婚した夫婦のうち69%がお見合い結婚で、恋愛結婚は13.4%だった。これが1960年代後半に逆転し、2014年には恋愛結婚が88%、お見合い結婚が5%となっている。

恋愛結婚とは、結婚相手を自分の意志で決めてよいということだが、その結果何が起きたかというと、結婚しなくなったのである。

女の子がよく使う言葉に、いい男、というものがある。私がいままでつきあってきた男はみんなダメな男だった。次こそはいい男に巡り会いたい、そんな話を我々はよく耳にする。

しかし、いい男というのは空想上の生き物であって、地球上に存在しない。そんな幽霊のようなものを探し続けて、気づいたら30歳を過ぎている。そこで諦めて結婚を決めても、もう子供を産むのは難しい体になっている。ほんとうにそれでよいのだろうか。

自分の好きな相手と結婚していいとなると、誰か一人に決めることができず、結局、結婚できなくなってしまう。それによって女性の晩婚化が進み、男女が平等であるように見えてきた。その現実を後追いする形で、男女平等という思想が支持を得るようになったのである。つまり、男女平等は表面的な問題にすぎず、ほんとうの問題は女性の晩婚化にあるといえる。

ここで、結婚するかどうかの判断を女性にゆだねてしまうと、いつまでも結婚できなくなってしまうので、こういうことは周りの人間が決めてやらねばならない。女性は若いうちに結婚して、子供を産んだほうがいい。そうしなければ、必ず後悔することになる。この世にはしょうもない男しか存在しないので、どんな男と結婚しても大差はない。選り好みをしすぎて婚期を逃すよりも、適当な男とくっついたほうが幸せである。

そもそも、恋愛が好きな男はいない。これは私の偏見かもしれないが、恋愛が好きなのは女性のほうであり、男性はただセックスがしたいだけだ。だが、素敵なデートをしてあげないとセックスをさせてくれないので、男はいやいや女の趣味につきあっている。女性が考える理想のデートは、男性にとっては苦行に等しい。

そして、その苦行が実行できる男性は数が限られている。女性がしてほしいことを正しく見抜き、そのとおりに実行できるのは一種の才能であり、そんな才能を持つ男は数が少ないのだ。その少数の男に女が群がるから、その男はやりたい放題になる。彼にとってセックスはできて当たり前で、何の感動もなくなってしまい、女性を大事にできなくなる。そんな男とつきあっていても女性にとっては時間の無駄で、そうして時間の無駄を繰り返しているうちに、いつのまにか30歳になっている。

恋愛ほど不毛なものはない。

女性たちはよく考えなければならない。結婚なんてしなくてもよいのか、若いうちに結婚して子供を産みたいのか。何も考えないでいると、あっという間に30歳で、もう選択の余地はなくなっているのだ。

一番大事なのは女性の意志である。男はみな女のために生きているので、女が何を望むかによって社会の形が決まる。社会の原点、すべての始まりは女の意志である。女の子たちが結婚をしなくていいというなら、そのような社会になるし、若いうちに子供を産みたいなら、それがしやすいように社会は変わるだろう。

たとえ話をしよう。カッコウという鳥がいる。カッコー、カッコーと鳴く鳥だが、この鳥は子育てをしない。卵を他の鳥の巣に産みつけて、自分はどこかに行ってしまうのだ。これを托卵といい、卵を託された鳥がカッコウの代わりにその雛を育てる。育ての親を仮親という。

不思議なのは、仮親がカッコウの子供を育て続けることだ。仮親はホオジロやヨシキリなど、スズメ程度の大きさの鳥だが、カッコウはハトくらいの大きさである。だから、カッコウの雛はすぐに親よりも大きくなってしまう。自分より大きい雛に餌を与えるヨシキリの姿は滑稽だが、そもそも、なぜ彼らはカッコウの子供を育てようとするのだろうか。

気づいていないからだ、と言う人もいる。仮親はそれが自分の子供だと思い込んでいるので、育て続けるのだと。しかし、鳥はそんなにばかではない。彼らはとても賢いので、それが自分の子供ではないことはわかっているはずだ。わかっているのに、カッコウの雛を育て続ける。

そうするしかないのだ。カッコウの雛は、卵から孵ったとたんに他の卵を巣から落としてしまう。仮親の子供をみな殺してしまうのである。そうすることで、親鳥が持ってくる餌を独り占めにして大きく育つ。

親鳥からすれば、子供はみな死んでいる。残されたのはカッコウの雛だけだ。ここでカッコウの雛を見捨ててしまえば、もう何も残らなくなる。一年間を無為に過ごすことになる。野生の鳥の寿命はだいたい二、三年と言われ、一生の間に育てられる子供の数は限られている。その大事な一年を無駄にするよりは、他人の子供であっても育てたいと思うのだろう。

さて、この話で一番かわいそうなのは誰か。一番かわいそうなのは、やはりカッコウである。なぜならば、カッコウは子育ての喜びを知らないから、という話。

コンドームをつけて行うセックスは子供の遊びである。生でやってがんがん出しまくったほうが気持ちいいに決まっている。そして子供を産んで育てるまでがセックスである。そこまで楽しんで、ようやくセックスを知っているといえる。恋愛ばかりやっていると、ほんとうのセックスを知らずに終わってしまう。それではどうにもつまらない。

動物はみなセックスを楽しんでいる。なぜ人間にそれができないのだろうか。

恋愛主義と性犯罪

前々から思っていたのだが、不同意性交というのは奇妙な言葉である。まるで同意のある性交が存在するような言い方ではないか。

たとえば二人の男女がホテルの一室で、私はこれからこの人と性交することに同意します、などと契約書を書いてから行為に及ぶことがあるだろうか。あるいは、私はあなたとの性交に同意します、と宣言してから行為を始める人がいるだろうか。だが、そうした手続きを踏まなければ、両者が性交に合意したことを確認することができないので、不同意性交の罪に問われる可能性があることになる。

実際には、同意のある性交は存在しないはずである。ゆえに、不同意性交というものも存在しない。少なくとも、ある性交が同意のもとに行われたか否かを明確に判断することは難しく、したがって不同意性交の罪を成立させることは困難であるといえる。

何が言いたいかというと、いまの法制度や社会通念においては、女性の立場の弱さが十分に考慮されていないということである。性交に関してより多くのリスクを負うのは女性であり、その点に配慮した法や慣習が必要である。この意味で、男女平等という思想は女性の立場を悪くしてしまう可能性がある。とくに法律上で男女を対称に扱うことは危険である。

根本的な問題は、誰とでも性交してよいという社会通念にある。我々の社会では、お互いの合意があれば誰と性交をしても自由であるため、本人の意志に背いた性交という形で性犯罪を定義せざるをえない。その意志の確認が難しいものであることはすでに述べた。したがって、より明確に性犯罪を定義するためには、誰とでも性交してよいという前提を覆す必要がある。

仮に、いちど性交をした相手とは必ず結婚しなければならない、という前提を置くならば、不同意性交の罪は必要なくなる。代わりに、性交をしたにもかかわらず結婚をしない罪を設ければよく、こちらのほうがより明確に性犯罪を定義できるだろう。

そもそも、誰とでも性交してよいという我々の社会の常識はコンドームの存在を前提としたものである。その限りにおいて、いまの法体系はコンドームの存在に依存していることになり、まったく普遍性がない。そのような普遍性のない法律を用いているからこそ、性に関して様々な問題が生じるのである。

性交をすれば子供ができる。我々はそれを前提とした法体系を作らねばならない。いまの法体系では、子供のできない性交、すなわちコンドームを使用した性交が前提とされているため、不同意性交というおかしな罪が必要とされた。しかしながら、コンドームをつけた性交を正しいものとするならば、いくら性交をしても子供は生まれないことになる。我々の社会通念は、まるで子供の存在を否定しているかのようである。

もしも、性交によって子供ができることを前提とするならば、男女非対称な法律が必要になるだろう。なぜならば、妊娠・出産という負担が生じるのは女性側であり、そのような負担を生じさせた男性側の責任を追及しなければならないからである。すなわち、性交をしたが結婚をしない罪である。これは実際に妊娠していない場合でも適用可能でなければならない。

好きな相手と性交してよいという現代社会の通念は、著しく男性に有利なものであり、平等性を装いながらそのじつ女性に不利益を押しつけている。男性は好きな相手と無責任に性交できるが、女性はそうではない。女性に対して自由な性交を推奨することは、本人を危険にさらす可能性があることを理解するべきである。自由であることが必ずしも幸福であるとは限らない。不自由な現実を認めるほうが国民の福祉にかなう。

男性は性交渉に関して自由でありうるが、女性は自由ではありえない。この非対称性を法律に反映させなければ、真の平等を実現することはできないだろう。

ここで、不同意性交罪は被害者が男性の場合でも成立するから、より一般的な罪であると考えられるかもしれない。だが、それは論点がずれている。我々が想定する法体系は男女を非対称に扱うので、男性を被害者とする罪は別個に立てられねばならない。ホモセクシャル等に関しても同様であるが、正直にいって、女性が被害者である場合と比べてこれらの場合がそれほど重要であるとは思われない。もちろん無視してよいわけではないが、男女関係を正しく規定するほうが大事である。

マイノリティはあくまでもマイノリティであり、マジョリティの抱える問題のほうが社会的な重要性は大きい。そもそも、マイノリティが存在しうるのはマジョリティが存在するからであり、マジョリティが襟を正さなければ、マイノリティが存在する余地もなくなってしまう。だから我々はマジョリティを優先しなければならず、マイノリティへの配慮に必要以上のリソースを割くことはできない。マジョリティの衰退は同時にマイノリティの衰退を意味するのである。

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