日本の思想

親鸞

日本には思想がないとか哲学がない、と言われることがある。中国には諸子百家があり、哲学や思想はたくさんある。インドにも六派哲学のような学問の伝統があり、体系的な思想の宝庫と言える。では、日本はどうか。日本には思想家がいるのか、哲学者がいるのか。

そういう人物の名前を挙げようとしても、なかなか出てこない。わずかに空海や道元などの仏教者、本居宣長や賀茂真淵などの国学者、そして伊藤仁斎や荻生徂徠などの儒学者の名前が出てくる。だが、このうちのどれだけが、思想と呼べるものを表現しえただろうか。体系的な思想を展開した日本人は、空海一人と言ってもよいかもしれない。では、日本には思想はないのだろうか。日本の思想とはどのようなものだろうか。

日本の思想を最もよく表現した人物として、私は親鸞の名前を挙げたい。彼の『教行信証』を読んだとき、私は衝撃を受けた。この本は、基本的に他の経典からの引用によって構成されている。中国や日本の僧侶からの引用や、お経の引用の合間に、彼自身の文章がわずかにちりばめられている。それは分量としては少なく、また内容としても多くはない。『教行信証』の本体は、あくまで他人の言葉の引用である。それが、親鸞自身の思想を何よりも雄弁に語っている。

自分の言葉で自分の思想を表現できる人は、少なからずいる。そういう人は思想家と呼ばれる。しかし、他人の言葉で自分の思想を表現できる人は、親鸞一人である。我々は彼のことを何と呼べばよいのだろう。

言葉のむなしさ

おそらく、これが日本の思想である。つまり、他人の言葉で自分の意見を語ることである。たとえば、夏目漱石の『こころ』という小説がある。その中で、登場人物の「先生」が、友人の「K」に対して、過去に「K」から言われた言葉を、そのまま言い返すという場面がある。痛いところを突かれた「K」は、その後自殺してしまう。

このように、過去に自分が言った言葉を相手に言い返されると、ぐうの音も出なくなってしまう。たぶん、これが日本の思想である。他人の言葉で自分の意見を述べるということは、言葉のむなしさを際立たせる効果がある。

あるとき、ある人が、ある言葉を述べるが、その言葉の意味は文脈によって変わる。どんな言葉も常に正しいということはありえず、その意味するところは時代によって場所によって変ってゆくものである。言葉というものは、相対的なものであり、はかないものであり、移ろいゆくものである。それを表現することが日本の思想ではないか。

だから、日本人は言葉による思想の体系を作らなかった。そんなものには意味がないことを知っていたからである。言葉というのはその場限りのもので、その場限りの意味しか持たない。それを後々まで残しておいても仕方がないのである。

タイトルとURLをコピーしました