満洲事変の軍事思想

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満洲事変の意義について、もう少し述べてみたい。

満洲事変を起こしたとき、石原莞爾の頭の中にあったのは、ナポレオン戦争であった。ナポレオンはフランスの将軍であったが、彼一代でヨーロッパ大陸をほとんど統一してしまった。その後、ナポレオンが勝負を挑もうとしたのは、イギリスであった。大陸封鎖を行ってヨーロッパの意志を統一することで、海洋帝国であるイギリスを打倒しようとしたのである。大陸国家フランスと海洋国家イギリスの対決、という構図がここに見てとれる。

現代の日本人は、日本を島国だと考えているようだが、そのような見方を続ける限り、歴史を正しく知ることはできないだろう。石原にとって、日本は島国ではなく、大陸国家であった。

これはおそらく、彼の出身が山形であることも関係しているのだろう。日本海側は、古くから日本の玄関口であった。大陸との交易が、北陸や山陰を中心に行われていたからである。もしも、満洲国の経営が軌道に乗り、満洲との交易が盛んになれば、日本経済の中心は日本海側になるはずであった。日本は常に大陸とつながっており、大陸の一部である。歴史的には、そのような見方は自然なものであろう。

つまり、日本はフランスであり、アメリカはイギリスである。大陸国家である日本が中国大陸を統一し、然る後、海洋国家であるアメリカとの戦争に挑むということ。その第一歩が満洲事変であった。

このことに留意すれば、石原が、日中戦争をナポレオンのスペイン戦争になぞらえたことも、また、あくまでも中国との戦争に反対したことも、理解しやすくなるだろう。彼は、日本が行うべき戦争を、 常にヨーロッパの戦史と比較して考えようとしていた。

大陸の力を結集すれば、必ず海洋帝国を打倒することができる。そのような信念が、彼を突き動かしていた。

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満洲事変の前後で、日本という国家の姿勢は百八十度変わってしまった。それ以前の日本は、覇権主義的な国家の一つにすぎなかった。西洋植民地主義の走狗と言われても、仕方がなかった。

しかし、満洲事変以後の日本の歩みには、単なる植民地主義として片付けることのできない部分がある。東洋の盟主としての自覚が芽生えつつあったと言ってもよいだろう。完全に改心したとは言えないまでも、大東亜戦争を、植民地の奪い合いのための戦争と考えることは適切ではない。日本人が唱えたアジアの解放という目標は、決して偽りではなかった。西洋列強に対する敵愾心が、ようやく日本人の胸にも生まれてきたのである。ある意味では、それは遅すぎたのかもしれない。それでも我々は、十分に結果を残したと思う。

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