農業と政治

農業の価値を貨幣で量ることはできない。これは漁業についても同じである。たとえば大抵の魚は、旬の時期が一番おいしく、また一番安くなる。したがって、おいしいものを食べることで人間が幸福になるのだとすれば、人間の幸福とGDPは反比例することになる。これが食の本質である。

人間はお金によって幸福になるのではない。金がなくても、うまいものさえ食えれば幸せである。これを理解している政治家が日本に一人でもいるだろうかと考えると、非常に心細くなる。

政治家が農業の話をする場合、食料自給率が話題になることが多い。国民の命を守ることが国家の義務だ、という発想から、食による安全保障が問題とされ、農業の役割が決められてしまう。

だが、食は命をつなぐためだけにあるのではない。食は人間にとって最も大きな幸福の源泉である。政治家が守らなければならないのは、国民の命ではなく、その幸福である。幸福を追求すれば、おのずと命も守られることになるだろう。逆に命があっても、楽しみが一つもないのであれば、生きている価値はない。いまの日本では、金があってもサンマは食えなくなっている。こんな国で生きていても仕方がないと思ってしまう。

国民が命をつなぐことだけを考えるのは、獣の政治である。そうではなく、国民の幸福を第一に考えることが人間の政治であり、それこそが真に文明的な政治だと言える。我々は命ではなく、幸福を追求しなければならない。

では幸福とは何かといえば、定義はない。また、国民自身が自分の幸福を理解しているとは限らない。


私は、うまいものを食べることが幸福だと言ったが、それ以外のところに幸福を見出す人間もいるだろう。では、幸福は人それぞれ別のところにあり、それぞれの個性を尊重するべきだ、ということになるのだろうか。

そんなことはありえない。人間の幸福などたかが知れており、無限に多様な幸福があるわけではない。他人と異なることをすることが幸福だと考える者は、自分の幸福を理解していないだけである。

人間には絶対的な幸福がある。それを知らない人間もいるが、彼らの言うことをいちいち聞いていてもきりがない。これをファシズムと言う人もいるだろうが、そうではない。また、みんなで真の幸福を追求しよう、ということでもない。それはすでに決まっている。幸福が何であるかはすでに決まっており、それに基づいて政治を行いうるかどうか、ということが問題なのである。その幸福とは何かということを、言葉によって表現することはできない。だからといって、それが存在しないと言うこともできない。少なくとも私はそれが何であるかを知っており、それを知ることができる人間を育てることが政治の本質である。

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