権力の問題

権力の問題はかなり根深いものがある。どこから切り込んでよいのか分からないが、そもそも、権力とは人を従わせる力だと考えられている。支配者が被支配者を意のままに操ることができるときに、権力があると言われるようである。

だが現実には、そんなことはありえない。たとえば、ラジコンのコントローラーを握っている人が、ラジコンカーを意のままに動かせるかというと、それはその人の技量による。自分の思った通りに動かないことはよくあることである。それと同じように、もしも人を動かすコントローラーがあったとしても、思い通りに動かすことは難しいだろう。まして権力者の思い通りに動く民衆など、世界中のどこにも存在しない。だから、人を動かす力を権力と呼ぶのだとしても、それは、人を意のままに動かす力ではありえない。

あるいは、被支配者の意志に反して、特定の行為を行わせうる力を権力と呼ぶのだとしよう。だが、正当な方法で生活している人に対して、不当な要求を突きつける権力が長続きするはずはなく、それは権力そのものを弱める結果を招いてしまうだろう。ゆえに、権力が人を従わせる力を持つのだとしても、それは何らかの正当性のもとで行使されなければ、自分自身の首を絞めてしまうことになる。そうすると、権力は自ずからそのような正当性に従う必要があるわけである。


さて、このように考えてくると、権力という概念の基礎になっているものが、自由意志であることが分かる。そもそも権力者に自由意志があることを仮定しなければ、権力という概念は成り立たない。というのも、権力者の決定が、さらに他のものによって決定されているならば、それを権力と呼ぶことはできないからである。しかしながら、現実に存在する権力は常に何らかの正当化を必要とし、その下でしか権力を実現しえないのであるから、他人を自分の意志に従わせるものとしての権力は、現実には存在しないことになる。なぜならば、人をそれに従わせるべき自由意志の存在が、そもそも認められないからである。

それが被支配者の合意の下で行われるものでなければ、権力者の命令は役に立たない。権力の背後に常にこのような関係があるのだとすれば、いわゆる権力批判というものは全く意味をなさなくなるだろう。


権力のもう一つの側面は、支配者が被支配者を操るために、暴力を用いることである。これは、権力を実現するための手段の一つにすぎないが、えてしてこれが権力の本質だと考えられる傾向がある。この場合、暴力によらない権力の存在を証明することが、一つの反論になりうると思う。それは、人々が自主的に権力に従う場合である。

たとえば農業用水の問題で、近隣の村同士が揉めていたとしよう。どちらの村に水の利用権があるか、ということで争いになってしまったときに、その土地の権力者が、双方が納得できるような裁きを下したならば、彼らはその判断に従うだろう。騒動の当事者にとっては、それまでのいきさつもあり、自分の住んでいる土地のことでもあり、客観的に判断を下すことは難しいし、また相手が言うことを聞いてくれるとも限らない。それを仲裁し、正当な理由によって、また当事者の利益を考慮した上で、権力者が適切な判断を示すことができたならば、人々は暴力の強制によらずに、また潜在的な暴力への恐怖によるのでもなしに、彼の言うことに従うだろう。

こういった権利関係の争いは、ときに死傷者が出るまでに激化することもある。権力者の存在が未然にそれを防いでくれるのであれば、それは人々にとって利益になることである。このとき、暴力によらずに、また強制にもよらずに権力が成立すると言えるだろう。この種の権力を、私は「徳治」と呼んでいる。それは、暴力による支配を前提とした「法治」に対比される言葉である。徳治は利益に基づいて成立する権力である。もちろん徳治的な権力が、暴力による裏付けを伴っている場合もある。だが、それはその権力の本質ではない。

この徳治という概念を使えば、天皇についての理解も深まるのではないか。

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