アニメーションと日本語の感性

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私はこれまで、たびたびアニメーションについて触れてきた。それはもちろん、私が好きだからというのもあるが、アニメーションを通して、日本的な感性を復活させようという狙いもある。

パラパラ漫画などを描いたことのある人ならわかると思うが、アニメーションを作ろうとするとき、どの瞬間を切り取るか、ということが一番難しい。たとえば、人が倒れるところを描くことを考えてみよう。始まりの絵は直立した人間であり、終わりの絵は仰向けに倒れた人間である。この二枚の絵をつなぐ中間の絵を描くときに、どの傾きの絵を何枚入れるか、ということを考えねばならない。真横から見たとすると、初めは90度、終わりは0度で、その中間に70度、40度くらいの傾きの絵を挟めばよいだろうか。

コマの送り方を早くすれば、もう少し多くの絵を入れられるだろう。だが、どれだけ絵の枚数を増やしても、人が倒れる動きをすべて描くことはできない。90度の次に89度の絵を挟んだとしても、その間に89.5度の絵を挟むことは常に可能だし、実際に人が倒れる場合、その瞬間は必ず存在しているわけである。どれだけ多くの絵を描いても、ものの動きを完全に捕らえることはできない。ここに不思議がある。

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よいアニメーションとは何だろうか。

それは、よく動くアニメーションである。私が子供のころ、テレビでは『ドラゴンボール』のアニメをやっていた。かめはめ波の溜めで二分も三分も使うような作品で、絵がほとんど動かなかった記憶がある。そういうアニメは、お世辞にもよいとは言えない。

では、絵が動けばよいというなら、CGのアニメーションはどうだろうか。ピクサーの作品はとてもよく動くので、優れたアニメだと言えるのではないか。

もちろんそれを評価する人も多い。だが、それを手描きのアニメーションと同じものだと見なすことはできない。彼らがどうやって3Dのモデルに動きを与えているかというと、人間の動きをモーションキャプチャーで記録して、それをなぞるように映像を作っているのである。それは現実の動きを真似しているだけであって、それ自体は芸術ではない。

たとえば、恐竜がどのように歩いていたか、知ることができるだろうか。恐竜の骨格は化石となって残っているが、その動き方まで分かるわけではない。もっともよい手掛かりとなるのは、足跡の化石である。我々は恐竜の足跡を見ることで、彼らの歩き方を想像することができる。

恐竜の動きは、それ自体としては残らない。しかし、それが動いた記録は、他のものの中に他の形で残されるのである。運動は、それ自体としては残らないが、その痕跡を残すことはできる。その痕跡から運動を再現することが芸術性を生む。恐竜の足跡は、人によってはただの窪みにすぎないが、見る人が見れば、恐竜の動きを目の当たりに再現してくれるものである。そういう人にとっては、それは一種の芸術だと言える。

話を元に戻すと、ある運動を芸術に昇華させるためには、その運動をそのまま再現するだけでは足りない。そうではなく、その運動を別のものに刻印して、そこから運動を想起させねばならない。では、アニメーションが刻印しているものとは何か。それは、アニメーターの心身の動きであろう。

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日本語には主語がない、とよく言われる。主語がないということは、主体がないということである。もっとも単純には、述語は動作を現す。「行く」とか「思う」とか「言う」とか、身体や心を使った行為を意味する言葉が述語である。

日本語には主語がない、ということは、日本語には述語しかない、ということである。ゆえに、日本語においては述語こそが主語であり、主語は述語だと言えるのではないか。言語には、それを使う人々の哲学や世界観が反映されている。日本人にとっては、述語として表現される動作こそが世界の本質であり、主語として現れる「もの」は副次的な意味しか持たない。日本語においては、「ものが動く」のではなく、「動きの中にものが現れる」のである。動作が主で、人は従である。

これに対して、英語には必ず主語がある。主語と関連付けられなければ、述語は意味をなさない。つまり「ものが動く」のであり、人が主で、動作は従である。このような思想が反映された表現として、CGアニメーションがある。

CG表現の特徴として、モデルを使うということがある。コンピューター上に3Dのモデルをあらかじめ作っておいて、そこに動きを与えるのである。3Dモデルという「もの」があって、はじめて運動を表現できる。これが英語圏のアニメーションの特徴だろう。

では、日本のアニメの特徴は何かといえば、細やかな表現だろう。小さな感情の揺らぎやさりげない動作などを、誇張することなく丁寧に描く。それは、キャラクターというものがあらかじめ存在するわけではなく、動作の積み重ねとして人格が現れてくる、という思想の反映だと考えることができる。人物があり、それが動くのではなく、動きの中に人格が現れる。それを表現するのが日本のアニメーションではないか。

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ある意味では、人間は運動の通り道でしかない。たとえば、高速道路の渋滞は、何時間も同じ場所に存在し続けるが、それを構成する自動車は次々入れ替わっている。ある種の運動の表現として、渋滞が現れるのである。

人間もこれと同じで、自然の中の運動の一部を切り取ったものを人間と呼んでいるにすぎない。全てのものは、それ自体として存在するわけではなく、運動の一つの断面として現れるのである。

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